2005-02-01から1ヶ月間の記事一覧

 ダーウィン以後

ダーウィン死後は凋落の一途をたどった進化論。自然選択理論が支持されていたというよりも、 現象としての進化とその唯物論的・進歩的な解釈という「周辺部分」のみが、ドーナツのように残されることになった。かくして、19世紀末から20世紀にかけて、社会進…

 ダーウィン

1858年、リンネ学会で、同時期に同様の理論に思い至ったウォレスと共に発表。1859年、『種の起源』を出版。ちなみにダーウィン理論の大枠は1838年には決まっていたらしいが。

 ダーウィン以前

どうも○○学ってのがごっちゃになってしまうので、佐倉統さん流のまとめかたを叩き台にしてみるテスツ。 進化論の歴史的な変遷は、他のすべての科学と同様、キリスト教と密接な関係にあった。 18世紀の時代思想がまずあった。18世紀の西洋生物学とは、自然=…

 文化は各個人がもっているものなの?

久々に文化人類学らしく。素晴らしく豊かな、浜本満さんの論を自分で消化するための引用+少々考察エントリー。引用部以外は浜本さんの論ではなく、私の稚拙な考えなので誤解なきよう。 http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/1.html…

 未来の家の考え方

「家展――記憶のかたち」http://ieten.net/work_list.html。「記憶する服」と「メモリー雑巾」に一票。降り積もるように、重なり織りあうように、外在化されたかたちで記憶が残るのは大好き。自分のあずかり知らないうちに。ノスタルジア。雑巾で拭くようにあ…

 キッチュへの倫理的非難

ではキッチュへの倫理的非難はどのように成立しうるのだろうか。 キッチュが寄生の美学によってえたものを、あたかも自分に固有のものであるかのようにいつわって、みずからを「作品」として自分に売りつけるとき、たしかにそれは倫理的不誠実として非難され…

 「寄生の美学」としてのキッチュ

だが、芸術作品とキッチュは、それぞれ拠って立つ美学が異なっている。芸術作品は多くの場合なにかしらの強度をそれ自体に内包している。 芸術→それに固有の視覚的な美的構造を備える(自存性の美学) キッチュ→たとえばお正月の門松みたいな「際物」。それ…

 もうひとつの態度――「誠実」

キッチュはまた「誠実」という態度の問題でもある。ロマン主義においては、作品が芸術家の個性や精神の表現とされた。自己表現の美学は、自己表現の「誠実さ」を要求する。つまり、 情動過多のキッチュは、作者自身が感じてもいない見せかけの感情の表現 だ…

 キッチュとはセンチメントの過剰?「自制」という態度

たとえば19世紀、ヴィクトリア朝様式の過剰な室内装飾。あるいは現代でいえばラブホの過剰な装飾、悪趣味な喫茶店のシャンデリア、見栄っ張りな質屋育ちの娘が持参するどでかいダイアモンドの指輪、といったトコでしょうか。とにかくキッチュは「過剰さ」を…

 「キッチュ」の語源

昨日の続き。またもや基本的に『現代アートの哲学』に拠る。 キッチュの語源、ドイツ語、1860年頃、ミュンヘンにて。この時代は貴族・ブルジョワ社会から、産業・大衆社会への幕開けの時代。 一説によると、スケッチ(sketch)がキッチュの語源だという。ミ…

 批評という言説

そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人的趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例…

 芸術における「よき趣味」とは何であろうか

アートに対する趣味は得てして価値判断される。 大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味=教養の発露としての「芸術」概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようにな…

 近代美学の混乱の原因

これはなかなか鋭い指摘ではないだろうか。 近代は、芸術をそのような作品外の習慣のコンテクストから引き離して、その自立性を強調してきた。近代美学の混乱は、一方でそのような自立的な作品の純粋に美的・芸術的価値を強調しつつも、他方で、あいかわらず…

 「美的経験」の論理的根拠

外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基本的に『現代アートの哲学』に依拠。 作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、そ…