近代美学の混乱の原因

 これはなかなか鋭い指摘ではないだろうか。

 近代は、芸術をそのような作品外の習慣のコンテクストから引き離して、その自立性を強調してきた。近代美学の混乱は、一方でそのような自立的な作品の純粋に美的・芸術的価値を強調しつつも、他方で、あいかわらず作品を命題の省略形とする習慣に依拠しつつ、従来通りのやり方で、その真理性を主張できると考えたところにあった。

 その上でアンディ・ウォーホルなどの現代アートを考えると、こうなる。

 現代では、社会的コンテクストから遊離した美的モダンに対して、意図的に社会的コンテクストのなかに作品を再定位し、これによってアートの経験を現実経験に接合しようとする傾向がいちじるしい。

 便器をアートのコンテクストにおいたマイルストーンマルセル・デュシャンの『泉』――そういえば、この前の朝日新聞では『泉』ではなく『噴水』という邦訳題こそが正しいと主張されていたが――のポイントは、

 それはつまり、デュシャンのもくろみどおり、かれが破壊しようとした制度の側によって、「泉」という作品を、ある命題、たとえば自分たちの芸術を非難し告発する主張の省略形として用いさせたということである。