文化は各個人がもっているものなの?

 久々に文化人類学らしく。素晴らしく豊かな、浜本満さんの論を自分で消化するための引用+少々考察エントリー。引用部以外は浜本さんの論ではなく、私の稚拙な考えなので誤解なきよう。
http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/1.html

 文化は集団の保有する、その集団に固有のものであるとされている。しかしそもそも集団なるものは認識したりせず、結局認識とは個々人がおこなう作業なのであるから、認識体系のようなものがあるとすれば、それは少なくとも個人が持っているものでないことには話にならないだろう。さらに行動し、感情を持ち、感覚するのも、結局は集団ではなく個々人なのであるから、こうした「固有の体系」も個々人が各自もっているという形でしか想像しようがない。要するに「集団に固有の」ということは単に「集団の誰もがもっている」という意味なのだということになる。この定義では文化とは、個に対する類としてのカテゴリーの属性、その成員の共通属性とされるしかないことがわかる。

 しかしそこ[フィールド]で実際に記述されるものは、複数の人々の語りの共通部分や平均をとったものであることなどまずなく、むしろ前述したような[研究者による]総合と体系化の手続きの産物であり、とても[現地の]一人の個人には原理的に回収できない代物である。つまりこうした文化概念は、とんでもない自己撞着を含んだものになってしまっているのである。それをあくまでもその集団の成員全員がひとしく、あるいは平均的に持っているものだと主張するとき、人類学は文字通り、人間についての一つの歪んだ博物学となり、一つの集団を均質で硬直したものに描いているという批判をまさに甘んじて受けるべきものになる(eg. Rosaldo 1989: 43)。

 実に鋭い。

 人類学の記述の対象であるこうした知識体系を、個人と集団、個と集合態の軸上で想像するのはそろそろ止めたほうがよくはないだろうか。

 これは文化人類学への批判となるのみならず、「文化」の名を冠する学問すべてが真剣に理論的考慮すべき問題ではないだろうか。たとえば文化心理学。通常の心理学は、各個人の心性単一性を仮定し、文化を変数として扱う。したがって上記の問題は一応クリアしている。しかし、文化心理学

「心理プロセスは文化の内容をなかに取り込むことにより成立し、それらに囲まれることにより維持され、同時に、文化の内容は心のプロセスの活動そのものを映し出している。つまり、心と文化は歴史的循環のなかで互いに生成しあうものである。(中略)この意味において、文化は実質的に心を作り上げており、また同時に、文化そのものも多くの心がより集まって働くことによって維持・変容されていく」(北山忍編『文化心理学』、東京大学出版会

と自らを定義するとき、そこで想定されている「文化」とは一体何であろうか。通例用いられる文化心理学パラダイムは、日本人=集団主義的(相互協調的自己観)、欧米人=個人主義的(相互独立的自己観)というものだ。ここで「自己観」というタームに注意して欲しい。たしかに個人個人の「自己観」を実験的に調べることはできるだろう。そして、集団内の各個人の自己観(の傾向)が一致し、それを「文化的自己観」という共通要素として描ける可能性はあるだろう。


 では、各個人が持つ、文化に関する「自己観」はどのように形成されるのか。自己観は常に外部との差異によって構築される。実体論的にではなく、関係論的に。他の集団に属する個人との具体的接触によって、あるいは差異を体系的に描く学問的言説によって。通例外国人との接触は稀なので、むしろ言説効果の方が大きいといえるだろう(入試現代文なんかはまさに国民性論の再生産装置)。研究者・文筆家が描くコスモロジーは、直接的ないし間接的に、言説空間を形成する。


 浜本はオースティンの<陳述(statement)/文(sentence)>の区別を援用した上でこう続ける。

 私は人類学がこれまでコスモロジーあるいは文化、世界観などのさまざまな名前で呼び、誤ってなんらかの集団の保有物であるかのように想像してきたこうした知識を、ある種のネットワーク的な空間に帰属するものとして想像しなおそうと思う。私はこの空間をさしあたって言説空間と呼んでおくことにする。
 ‥「文」とは要するに、陳述の個別性や出来事性を取り去られ、他者の陳述に移植可能となった語りの姿である。組み替えられたり変形されたりして、その都度の陳述を形成しながら人から人へと受け渡され流通してゆくという、この「文」としての側面は語りにとって付随的なものであるどころか、その本質である。この移植可能性こそ、コミュニケーションを可能にする根拠でもある。
 我々はこうした「文」が、個別的な陳述を介して流通、転移、変形、結合していく空間を想像してみることが出来る。その都度の陳述が形作るコミュニケーションの、絶えず形を変える網の目状の連鎖が形づくるその空間には当然、明確な境界もないし、地理的な空間と同じ広がりを共有するわけでもない。‥こうした想像上の空間を言説空間と呼ぶことにする。‥この空間を構成しているのはコミュニケーションの網の目であるから、空間という言葉を用いてはいるものの、それが同時に時間的な存在――時間のなかで形を変えつつ自己形成していく存在――であることも言うまでもないだろう。

 その上で文化人類学の役割は以下の通り再定義される。

 「文」の流通という角度から見たとき、この空間での我々の語りの行為は一種の伝言ゲームに似た側面をもってくる。この空間の主人公を、変形したり組み替えられたりしながら流通していく語りそのものであると捉えたとき、語る主体の方は、どこかからもたらされた無数の語りを受け取り、それを自らの貯蔵庫に一時保持したり、組み替えたり変形させたりしながらさらに別のポイントに送り出す中継ポイントのようなものとしてイメージされるだろう。
 ‥きわめて局所的な空間を循環する伝言ゲームがある一方で、よりグローバルな、たとえば英国や日本に端を発する伝言ゲームがこの空間を横切っていくかもしれない。こうして「文」たちは、この仮想空間上に複雑な模様を描き出す。人類学者が取り出そうとする体系性とは、まさにこのパターン、流通する「文」たちを要素とする上位の体系性の片鱗なのである。

 極めて極めて大事な指摘は、

 知識がこの空間に帰属しているということは、それがこの空間の網の目を構成している中継ポイントたち――語る主体たち――によって共有されているということでもなければ、そのどこかに局在しているということでもない。知識がこの空間を流通しているということこそが、まさに知識がその空間に帰属しているということである。

というものだ。「流通」はもちろんメディアを通じても行われる。したがってマスメディアが跋扈する現代では、(見かけ上実体的な)「文化」の平準化が起こりやすいのだろう。ここに感染するものとしての「ミーム」という、うさんくさい概念を持ち込んでも一定の面白さはあるのだが、それはまた別の機会に。 


 もちろん単なる「伝言ゲーム」ではなく、語りは不断に生成・変容されてゆく。

 語りがまずもって陳述であること、つまりつねに具体的な個人による具体的な実践であることをもちろん忘れてはならない。人は語ることにおいて、単なる複製の流布を意図しているわけではない。

 さらに浜本の考察は冴えわたる。

 遊戯の伝言ゲームで、‥受け取っては次に転送している一連のメッセージが、後から振り返ってみれば互いに関係しあっていたと判明したとしても、それはメッセージの中継ポイントに過ぎない個々の語り手のあずかり知らぬことである。現実の言説空間においても、個々の主体がそれぞれ一回きりの陳述行為のつもりでおこなっている、反復・移植可能な「文」の転送ゲームが浮かび上がらせてしまうパターンや体系性を、語る個々の主体のみに帰すことは出来ない。それは個人にも、集団にも回収させることの出来ない体系性であり、まさにそのことこそ体系性が<社会的に>形成されたものであると言うことの意味なのである。

 各個人は一回きりの実践を行っていても、外部の観察者にとっては、いわば創発的性質として「文化」が(見かけ上、実体的に)立ち上がる。その創発的性質が強力な言説を形成し、また人々の一回きりの実践現場に接続される。
 さて、その上でかまびすかしい「研究者が語る権利」なるものを考えるとどうなるのか。浜本はこう述べる。

 おそらく、言説空間とそこを流れる語りたちが作り上げる体系性をトータルに対象化しうるような特権的な位置が存在するわけではない。言説空間は、その外部からは単なる無でしかなく、そこに接続することを通じてのみその姿を開示する。‥そして言説空間への接続はつねに、歴史的に限定された個別の実践であるので、その姿は特定の接続点からの特殊な景観以上のものにはなり得ない。まさにこれこそが人類学者のフィールドでの実践であり、その結果彼に与えられるものである。‥こうした接続を通じて人類学者が職業的に遂行している、さまざまな観測点における測量作業のような実践は、この空間に帰属しそこを流れる「文」たちを同定し、その相互の関係を明らかにしようとする作業だったのだと言えるかも知れない。

 さしあたって、自分の語りの位置を、どこまでも自覚するほかないようだ。


 わたしが考えねばならない問題は、1.流通する語りとしての「文化」と、行動(認知・感情)としての「文化」の関係。2.流通する語りとしての「文化」と、既に存在している制度としての「文化」との関係。3.流通する語りとしての「文化」と、(状況論的な)「道具」との関係。4.流通する語りとしての「文化」と、生態学的環境(あるいはアフォーダンス)との関係。5.言説をストックするサーバーとしての書物の問題。
 もちろん浜本さんの文献を読み進めれば、論点はより整理されるのだろう。でも、認知の問題を持ち込むと、いささか複雑さは増してくるように思われ、鬱。


 また、かつてhttp://d.hatena.ne.jp/Gen/20041224#p8に引用した福島さんの問題点

「ある意味で、社会的行為というのは、こうした[即興性と構造性のあいだの]スペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

と重ね合わせるならば、行為の一回きり・即興的な側面と、構造として比較的安定する側面とを、グラデーションにおいて考えなければならなくなる。つまり<陳述=一回きり/文=流通過程>の二分法は妥当するのか?(ルーマンなら「二分してるからこそグラデーションとか言えるんだろヴォケ」とかいいそうだけれども)

 
 最後に。ちなみに、文化心理学は、「自己観」と実際の行動との関係を、こう捉えている。

 自己観は「行動・認知・感情」に影響を与える。ゆえに、そのような自己観を抱いた人々が構成する社会は、そのような自己観を反映するものになる。

 この点こそがまさに焦点なのだ。自己観=語り=物語的世界=意味論的世界と、行動・認知・感情との関係が、いかにも不明瞭だ。「科学」を騙るならば、この点はもう少し問いつめたい。(もしかしたら私が知らないだけで理論的解消された文献がどこかにあるのかも)