「美的経験」の論理的根拠

 外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基本的に『現代アートの哲学』に依拠。

 作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、それが帰属する様式のクラスといった、その作品が位置する現実の歴史についての知識を前提とする。

 なにも美術史的な知識だけが、アート鑑賞に際して動員されるわけではない。「真理の経験としての芸術」という考え方が広く受け入れられている。

 詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考え方は、古くからある。

  • プラトン→詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写し取ることで、真理をゆがめるいわゆる仮象として、これを断罪した。
  • アリストテレス→人間には模倣をよろこぶ本能が備わっており、しかもこのよろこびは、模倣を通じて、しれが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識の喜びに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識に真理性にもとめる。

 そしてこのような「芸術作品を介しての内的真理のかくれない開示とその享受、共有という基本構図」は、近代に強化された。

 このような考え方は、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的、共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張し始めたとき、いっそう純粋な形で強調されることになる。‥それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学の中で体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。

 たしかに我々は芸術を真理の一端を示すものとして経験する。だがそれは、

 あくまで、美的経験のあとにつづいて、わたしという一個人、あるいはわたしが帰属する共同体にたまたま生じた経験である。論理的にいうかぎり、作品そのものが、そのようなあらたな現実経験への指示を直接に与えるわけでも、またつねに与えるわけでもない、つまり絵画経験の本質がそこにあるわけではない。


 そこで、絵画の美的経験(視覚イメージ)と、それが参照するコンテクストを、区別して考える必要が出てくる。(ミメーシスと現実との論理的関係)

  • フレーゲ→ひとつの単語がもっている「意味(sinn)」と「指示(Bedeutung)」のレベルを区別(「明けの明星」も「宵の明星」も指示するのは同じ金星)
  • ビアズリー
    • 描写(depiction)→たとえばレンブラント肖像画において、「ひとりの内省的な男の顔」という視覚デザインのレベル
    • 肖像(portraying)→レンブラントと呼ばれる実在の画家を指示する自画像のレベル

 予備知識無しに美術館に行って楽しめるのは、あくまで「描写のレベル」だけだ。レンブラントへの歴史的知識が「肖像のレベル」を可能にする。

 歴史的知識にしても、この絵の描写レベルの美的経験を深めるのに役立つのであって、これとは逆に、絵が歴史的現実についてなんらかの認識を与えるわけではない。‥「画家自身が作品の中に現前する」というシャピロの主張も、美術史の命題としては正しいとしても、この作品を見る経験としては、やはりいいすぎといわなければならない。


 絵の意味論的レベルとしての描写と肖像とを区別しない、混同したいいかたに溢れている。

 それ自体非言語的でメッセージをもたないものを、一定の「文の省略形」にするためには、もちろんそれにさきだって、特殊な言語的習慣と合意が必要である。‥伝統的には、作品は、宗教画や歴史画、寓意画、宗教音楽や典礼音楽など、一定の慣習に従ってコンテクストの中でつくられ経験されて、モラルや宗教やイデオロギーなどの代理、省略としての社会的機能を果たしてきた。

 まぁバルト的なシニフィアンのレベルとして、ってトコですか。まとめると

 一枚の絵それ自体の論理上の身分を問題にする限り、それはどこまでも描写であり視覚デザインであって、それ以上に人生についての教訓や教義に関わる命題を主張しているわけではない。それゆえ、これに真理性を要求することはできないだろう。