芸術における「よき趣味」とは何であろうか
アートに対する趣味は得てして価値判断される。
大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味=教養の発露としての「芸術」概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようになったのは、「高貴で美しい芸術」概念が確立する17、8世紀だということである。
「よき趣味」という<芸術に対する>価値判断は、当の芸術を鑑賞する人物の<人間性に対する>価値判断と不可分であったことは注意すべきだろう。美的=道徳的な水準。
フランス古典主義の「よき趣味」とは、パリを中心とした都会の貴族やブルジョアたちのエリート階級が所有する高級文化の規範であるが、それはまた、かれらが理想とした紳士淑女、つまりhかれらが普遍的と考える人間性の規範でもある。それゆえ、これに対するvulgarな趣味つまりは悪趣味は、人間性の価値の根幹にかかわる欠落として、美的であると同時に、あるいはそれ以上に、道徳的・階層的非難と拒絶のことばとして形成された。
それでは、芸術の趣味を価値判断することはそもそも可能なのだろうか。わたしならば「物語論てきに、個人各々の経験はそれぞれにとって真実である、ゆえに客観的価値の判断は不可能だ」と考えるが。そうすると、アンチノミーというかアポリアが生じる。つまり、「批評はなぜ可能なのか」という問題だ。
もしも趣味が、個々人の快を感じる能力だとすれば、「各人はそれぞれ自分自身の趣味を持っている」ということになり、それゆえ古くから知られた「趣味については議論できない」という格言をうけいれざるをえない。だがそうなれば、趣味が一つの判断として、ある種の普遍性を要求できなくなり、批評の意味がなくなる。
この二律背反に対する解決策を、色々な思想家が提示してきた。
カントはこの「個人的な快と普遍的な規範のアポリア」を「趣味のアンチノミー」と呼ぶ。以下、カントが提示した解決策。
かれはまず「趣味については議論できない」という格言に使われている「議論(disputandum)」ということばの意味を、証明によって真偽を裁断する「論議(disputieren)」と、他人の判断との一致を要求する「争議(streiten)」とのふたつに区別する。
つまりどういうことかというと、
趣味については「証明による議論」(論議)はできない。だがこのことは、趣味に関して他人と互いに一致するという希望のもとに意見を戦わせること、つまり「争議」まで否定するものではない。われわれは趣味について争議できるのだが、これをあやまって論議と考えてしまった点に、解きがたいアンチノミーの由来があるというのが、カントの主張である。
ヴェーバーの「価値判断」的な考えですかね。『職業としての学問』でヴェーバーは「教壇で、神々の闘争の問題であるところの価値を語るな」と述べたが、とすれば、たとえば野崎歓が駒場であからさまに映画に対して優劣をつけている映画論という講義は、いったいいかなる妥当性を持つのだろうか。
しかしカントも快に関する「共通感覚」なるものを想定してしまう。次は、マーゴリスの有名な解決策。
マーゴリスの4次元
- 個人的な趣味(personal taste)
- 単なる好き嫌いのレベル
- 鑑賞判断(appreciative judgement)
- 個人的な選好が、一定の理由付けにおいて正当化され主張されるレベル
これに対してわたしが期待できるのは、わたしの理由が他人の理由ともなりうること、つまりは他人の賛同を得ることである(カントの「争論」のレベル)。
ところで、個人的なレベルだけではなく、社会的なレベルでも価値判断が主張されることがあり、それらを取り込みながらわたしたちは自分の趣味を生成している。マーゴリスは社会的なレベルの趣味と判断の振る舞いを次のように整理する。
- 範例的ないし公的趣味(prevailing or official taste)
- 社会に受け入れられ広く流通している好み(「個人的な趣味」の社会レベル)
- 評決(findings)
- 公的趣味(社会に共通の好み)を正当化する理由を呈示するもの(「鑑賞判断」の社会レベル。批評家の論など)
「評決」は、一定の社会に帰属する誰もが好むと一般に見なされている対象がある場合に、このような社会に共通の好みを正当化する理由を呈示する。したがって、
だれもがおなじ感じ方をするとすれば、その理由をわれわれは、当の対象に根拠を持つと考えたくなるだろう。それゆえ評決は、ある対象が誰にとっても好ましく良いとされる理由について、あたかも当の対象が、その根拠となる一定の客観的な性質をみずからの属性として実際に持っているかのように記述する。
つまり、社会的に構築されたある作品に対する価値判断が、あたかもその作品自体が持つ属性であるかのごとく、錯誤されやすいということだ。
だからこそ、わたしたちが発する「美しい」という言葉には注意せねばならない。
「美しい」ということばは、ひとつの社会・文化が評決にいたるさまざまな事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として、あたかも裁判の判断を要約した判決主文のようなものである。
「これは美しい」という判断の実質がなんであるかを記述するためには、人間の普遍的本性の記述ではなく、また人間本性に訴えかける対象の属性の記述でもなく、むしろ評決という振る舞いが遂行される環境全体を、つまりは「ひとつの文化を記述しなければならない」。