キッチュとはセンチメントの過剰?「自制」という態度

 たとえば19世紀、ヴィクトリア朝様式の過剰な室内装飾。あるいは現代でいえばラブホの過剰な装飾、悪趣味な喫茶店のシャンデリア、見栄っ張りな質屋育ちの娘が持参するどでかいダイアモンドの指輪、といったトコでしょうか。とにかくキッチュは「過剰さ」を不可分に帯びる。
 わたしたちがキッチュに嫌悪感を抱くとき、

 われわれはまるで誘惑に抵抗するかのように反応する。

 惹きつけられるけれど抵抗するのが、キッチュへの態度。それはお菓子を食べ過ぎて太る女性への嫌悪感みたいなものか。つまりそれは

 精神的成熟を迎えた成人には向いていないという自戒の振る舞い

なのであり、昨日書いた「趣味」の洗練化としての自制の問題であった。

 階層秩序のなかで、なによりもまず道徳的自制として、情念の制御として、衝動の支配として理解される

のだ。これは趣味と行儀(manners)の同一視であり、芸術を道徳的観点から解釈するものである。
 たとえば感情のドンキホーテ・日テレ24時間テレビで涙を流すとき、わたしたちは涙の安っぽさ=自分の自制のなさを恥じ入る。あるいは浅田次郎で泣いたとは、おいそれと口にできない。