批評という言説

 そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人的趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例的趣味の影響下で、美的教育などを通じてそれぞれの趣味を養ってきたのである。

 伝統的美学において趣味は、個人の主観的内面ないし人間性といった、いずれにせよ外部世界から自立した領域の問題とされてきた。趣味のアンチノミーは、ここに由来する。これに対して、文化という全体的コンテクストにおける、それゆえ相互に作用し合う二つのレベルの振る舞いからなる複雑で動的な過程としての趣味を、われわれは、ここでもあの、制度としての発話というフーコー的な意味での言説(ディスクール)ということばをもちいて、「批評的言説」と呼ぶことができるだろう。

 まぁ正直とくに目新しさはない論だな、と。面白かったのは

 いわゆる目利きや批評家のしごとは、比較的安定した相対主義のなかで、個人的趣味と範例的趣味というふたつのレベルのあいだを媒介することである。

という記述。

 科学的事実が単に社会的構築されたものではなく、社会と物理的世界の双方を調停するスポークスパーソンたる科学者によって生み出されたものであるように、アートにおいても、作品(あるいは芸術家)固有の「なにか」はあるのだと感じる。それは進化的に育まれてきた心的機構に基盤を持つある種普遍的な快感覚を誘発する「なにか」なのかもしれない。

 科学的データを評価するのは科学の生産者たる科学者の共同体だが、芸術の場合、アート生産者の共同体がアートの評価を必ずしも決めるわけではない。批評家という奇矯な連中が巣くっている。まぁいかにネットワークを組むのかということでもあるのだろう。時間切れで考察はあとまわし。