emicとetic――文化人類学は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」るのか?

 id:jounoさんご指摘の<エミック/エティック>の対比は、言語学者K.パイクの<音素的な記述/音声的な記述>の対比に由来しますが、エミックな視点からの文化研究は、個別文化の内側から見て意味ある概念を見出そうとし、エティックな視点からは、どのような文化についても適用できるような概念を研究者が体系化しようとします。エミックな視点からの研究は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」だとさしあたり言うことはできます。しかし

 文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局何を意味するか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。(『文化人類学キーワード』pp.8-9.)

という指摘が行われるに至っては、前述した表象の(権力)問題が絡んできて、一概に「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする」とは言えなくなります。<エミック/エティック>は明快に二分できるものではない。ただし、文化人類学の志向としては、「エミック」なアプローチが試みられる場合が多々あるようです。

 都市人類学は、都市の全体性を鳥瞰的に示すのではなく、どこか考察のプロセスであるいはその分析方向が指し示す延長線上で、都市の全体性の「断面」を示してその全体性を「示唆し」ながら、逆にきわめて繊細で微的な都市住民の「喜び」や「悲しみ、つらさ」の中の人びとの踏ん張りや営みを描こうとする。こうして、都市人類学は、心意という人間の心中にあるきわめて繊細な動きと、都市全体の構造性という巨大性とを架橋して、そしてあくまでも人間から都市へ、微細から巨大へ、部分から全体へ、下から上へという方向性をもって、都市社会の生活像を描くものであり、そこにオリジナリティがあると考える。(「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日『文化人類学のフロンティア』所収)


 逆に「エティック」な文化人類学の試みとしてはマーヴィン・ハリス(ex.『ヒトはなぜヒトを食べたか』)が有名です。生態学的人類学など。うちのガチガチの実験心理学教授がマーヴィン・ハリスを絶賛していたのが印象的。あるいはこれから盛んになると思われる進化論を取り入れた人類学的アプローチも「エティック」な試みにあたるでしょう。これはモダンな方法論(人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく)といえますね。