「文化」概念の検討

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/def-cul.html
 「心脳問題」なるものが生じるのは、「心」という言葉/概念が、それに対応する確固たる実体を持たないからでしょう。厳密に脳科学的に「心」という構成概念を定義すれば、「心とは脳である」という立場からの記述が可能になる。だが「心」という概念が含む(日常的な)全体像を考えると、脳科学的な記述とはそぐわない(=カテゴリー・ミステイクになる)部分がどうしても生じてしまう。脳科学で「心」を語ることはできる。全くもってできる。だが、「心」を脳に還元はできない。もっとも、脳科学が「心」を語ることに必要以上の嫌悪感を示す人々はどうかと思う。


 「文化」という概念の場合も同様で、厳密に「文化」を定義すればそれなりに整合性のある理論が得られる。たとえフローとして「文化」を記述するにせよ。ただしその際、人々が一般に思っているような「文化」の全体性を含めようとすると、とたんに理論は厳密性を失ってしまう。前者の立場に立つ学者は、方法論の精緻化、体系的な理論の構築を求める。一方、後者の立場に立つ者は、フィールドワークの柔軟性がたとえば「質的研究」のような方法論に回収されることを嫌う。文化人類学の「曖昧さ(≒「文化」概念の定義の曖昧さ)」に固有の価値を置く。文化人類学の歴史は、「文化」に何を含めるか、「文化」をどのような構成概念として扱うか、まさにその揺れの変遷であったような気がします*1


 さて、自分は、限りなく「文化」というタームを用いずに対象の記述を行いたいと考えています。「文化」という概念は(少なくとも学システムの内部においては)滅ぼせるのではないか。「心」を刺激→反応に解体し尽くした行動主義者たちのように、「文化」もラディカルに解体してはじめて、次の何かが見えてくるのではないでしょうか。
 

*1:ギアツの功績はまさに「文化」を比較的厳密に定義したところにあるのだろう