文化人類学が表象するもの――博物館学的側面

 http://d.hatena.ne.jp/Gen/comment?date=20040721#cでのid:ecritsさんの

文化人類学者のやろうとしていることは、「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていくことなのか、それとも彼らの心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試みなのでしょうか?

という疑問への自分なりのコメントです。研究者、あるいは各々の研究が取るスタンスによってまちまち、というのがさしあたりの答えでしょうか。長ければ斜め読みして下さい。


 まず文化人類学には(学問のアイデンティティとして)博物館学的な側面*1が多分にあるということ。この場合は<「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく>というよりも、研究者にとって目新しいもの(そして西欧近代文明の浸食により「失われつつある」もの)を収集・保存していくことが目的となります。「インドネシア博士」的な人類学者が(現在でも)たくさんいるのも、この目的に照らせば、納得できます。さながら歴史学における歴史記述のように。ただし「純粋にある文化の習俗を記述・保存する」ことは不可能だという自覚から、以下のような流れになっています。

「研究対象との相互作用の産物」や、民族誌そのものの「時代的・社会的構築物」さらには「民族誌家の創造的思考の産物」ひいては「かつて研究対象となった人々が自己の集団の文化的アイデンティティを構築する際の再帰的リファレンス」という意味まで付与されるようになった(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

研究者が純粋に収集・保存を試みても、もしかしたらそれは「近代西洋的な概念で読み解いて(目の前の現実を取捨選択して)」いるのかもしれません。表象行為が、特定の社会内部での社会的な実践であることが自覚されるにつれて、それが内蔵する政治性にも無自覚ではいられなくなり、民族誌の実践を、表象を産出する社会と表象される社会との間の政治的・経済的・文化的権力関係の中で捉え直す必要が生じてきた。そしてこうした諸問題を考え直す実践の場として文化人類学は存在しているともいえます。

*1:民俗学」は本質的にコレなのかもしれない