キッチュへの倫理的非難

 ではキッチュへの倫理的非難はどのように成立しうるのだろうか。

 キッチュが寄生の美学によってえたものを、あたかも自分に固有のものであるかのようにいつわって、みずからを「作品」として自分に売りつけるとき、たしかにそれは倫理的不誠実として非難される

タイムアップ。後ほど追記。

 「寄生の美学」としてのキッチュ

 だが、芸術作品とキッチュは、それぞれ拠って立つ美学が異なっている。芸術作品は多くの場合なにかしらの強度をそれ自体に内包している。

  • 芸術→それに固有の視覚的な美的構造を備える(自存性の美学)
  • キッチュ→たとえばお正月の門松みたいな「際物」。それ自身に固有の意味や使用価値によってではなく、そのときどきの時節や場所や状況に寄生して、はじめて価値を得る商品となる(寄生の美学)

 キッチュな絵画(ラッセルとかかな?)とは何かといえば、

 それらが最大限の美的効果を得ようとしてとる基本戦略が、すでに伝統や習慣としてできあいの思考や感情の方式をあてにする寄生

なのである。しかしわたしたちはキッチュなしには生きてゆけない。テレビドラマが失われて矢田亜希子が姿を消すだけで、あるいはキッチュの極みのジャニーズが消滅するだけで、どれだけの人の人生の色彩がモノクローム化されてしまうのだろう。

 もうひとつの態度――「誠実」

 キッチュはまた「誠実」という態度の問題でもある。ロマン主義においては、作品が芸術家の個性や精神の表現とされた。自己表現の美学は、自己表現の「誠実さ」を要求する。つまり、

 情動過多のキッチュは、作者自身が感じてもいない見せかけの感情の表現

だと考えられ、断罪された。たとえば商業主義に染まるハリウッド映画をさげすみ、タルコフスキーを称揚するとき、わたしたちはハリウッド映画の不誠実さを非難しているのだ。最近のJ-popにおけるインディーズ・ブームなるものも、このことに関連しているのだろう。作品に作家性を求めるムーブメントは、まず「誠実さ」を要求するムーブメントであった。青年は作品に誠実さを求めるからこそ、パゾリーニ監督は刺殺されたのだろう。
 ともあれ、センチメント(感傷)の過剰への非難は、まずは倫理的な非難であり、美的非難ではなかった。キッチュを巡る議論の混乱は、

 元来美的な現象を、もっぱら倫理的な観点から論じ批判するという点に由来

するのだ。

 キッチュとはセンチメントの過剰?「自制」という態度

 たとえば19世紀、ヴィクトリア朝様式の過剰な室内装飾。あるいは現代でいえばラブホの過剰な装飾、悪趣味な喫茶店のシャンデリア、見栄っ張りな質屋育ちの娘が持参するどでかいダイアモンドの指輪、といったトコでしょうか。とにかくキッチュは「過剰さ」を不可分に帯びる。
 わたしたちがキッチュに嫌悪感を抱くとき、

 われわれはまるで誘惑に抵抗するかのように反応する。

 惹きつけられるけれど抵抗するのが、キッチュへの態度。それはお菓子を食べ過ぎて太る女性への嫌悪感みたいなものか。つまりそれは

 精神的成熟を迎えた成人には向いていないという自戒の振る舞い

なのであり、昨日書いた「趣味」の洗練化としての自制の問題であった。

 階層秩序のなかで、なによりもまず道徳的自制として、情念の制御として、衝動の支配として理解される

のだ。これは趣味と行儀(manners)の同一視であり、芸術を道徳的観点から解釈するものである。
 たとえば感情のドンキホーテ・日テレ24時間テレビで涙を流すとき、わたしたちは涙の安っぽさ=自分の自制のなさを恥じ入る。あるいは浅田次郎で泣いたとは、おいそれと口にできない。

 「キッチュ」の語源

 昨日の続き。またもや基本的に『現代アートの哲学』に拠る。
 キッチュの語源、ドイツ語、1860年頃、ミュンヘンにて。この時代は貴族・ブルジョワ社会から、産業・大衆社会への幕開けの時代。
 一説によると、スケッチ(sketch)がキッチュの語源だという。ミュンヘンを訪れたイギリス人らが正統な芸術品を買い求めず、スーブニール(おみやげ)として安価なスケッチを買い求めたことを揶揄する言葉だったらしい。すなわち、オーソドックスな芸術の代用品を意味。

 キッチュがもたらす心地よい美的心情の在り方→センチメンタリティー(感傷)

 センチメンタリティー、18世紀においてはネガティブな意味を帯びていなかった。だがドイツ・ロマン派などによって、あるいはカントの理性主義にきわまる道徳哲学によって、排除されるべき低俗な価値となってゆく。

 批評という言説

 そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人的趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例的趣味の影響下で、美的教育などを通じてそれぞれの趣味を養ってきたのである。

 伝統的美学において趣味は、個人の主観的内面ないし人間性といった、いずれにせよ外部世界から自立した領域の問題とされてきた。趣味のアンチノミーは、ここに由来する。これに対して、文化という全体的コンテクストにおける、それゆえ相互に作用し合う二つのレベルの振る舞いからなる複雑で動的な過程としての趣味を、われわれは、ここでもあの、制度としての発話というフーコー的な意味での言説(ディスクール)ということばをもちいて、「批評的言説」と呼ぶことができるだろう。

 まぁ正直とくに目新しさはない論だな、と。面白かったのは

 いわゆる目利きや批評家のしごとは、比較的安定した相対主義のなかで、個人的趣味と範例的趣味というふたつのレベルのあいだを媒介することである。

という記述。

 科学的事実が単に社会的構築されたものではなく、社会と物理的世界の双方を調停するスポークスパーソンたる科学者によって生み出されたものであるように、アートにおいても、作品(あるいは芸術家)固有の「なにか」はあるのだと感じる。それは進化的に育まれてきた心的機構に基盤を持つある種普遍的な快感覚を誘発する「なにか」なのかもしれない。

 科学的データを評価するのは科学の生産者たる科学者の共同体だが、芸術の場合、アート生産者の共同体がアートの評価を必ずしも決めるわけではない。批評家という奇矯な連中が巣くっている。まぁいかにネットワークを組むのかということでもあるのだろう。時間切れで考察はあとまわし。

 芸術における「よき趣味」とは何であろうか

 アートに対する趣味は得てして価値判断される。

 大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味=教養の発露としての「芸術」概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようになったのは、「高貴で美しい芸術」概念が確立する17、8世紀だということである。

 「よき趣味」という<芸術に対する>価値判断は、当の芸術を鑑賞する人物の<人間性に対する>価値判断と不可分であったことは注意すべきだろう。美的=道徳的な水準。

 フランス古典主義の「よき趣味」とは、パリを中心とした都会の貴族やブルジョアたちのエリート階級が所有する高級文化の規範であるが、それはまた、かれらが理想とした紳士淑女、つまりhかれらが普遍的と考える人間性の規範でもある。それゆえ、これに対するvulgarな趣味つまりは悪趣味は、人間性の価値の根幹にかかわる欠落として、美的であると同時に、あるいはそれ以上に、道徳的・階層的非難と拒絶のことばとして形成された。


 それでは、芸術の趣味を価値判断することはそもそも可能なのだろうか。わたしならば「物語論てきに、個人各々の経験はそれぞれにとって真実である、ゆえに客観的価値の判断は不可能だ」と考えるが。そうすると、アンチノミーというかアポリアが生じる。つまり、「批評はなぜ可能なのか」という問題だ。

 もしも趣味が、個々人の快を感じる能力だとすれば、「各人はそれぞれ自分自身の趣味を持っている」ということになり、それゆえ古くから知られた「趣味については議論できない」という格言をうけいれざるをえない。だがそうなれば、趣味が一つの判断として、ある種の普遍性を要求できなくなり、批評の意味がなくなる。

 この二律背反に対する解決策を、色々な思想家が提示してきた。

  • モンテスキューダランベール→人間であるかぎりその自然本性に備わった共通の本質がある[から批評は成立する]――これは古典主義への回帰。
  • ヒューム→パラドックスにみえたものは、じつは偏見によってあやまった感覚と、人間本性に共通の真の感覚とのあいだのひずみである。この点で理性は、趣味の本質的な部分ではないにしても、すくなくとも趣味の能力の行使にとっての必須のもの――これも[カトリック的な美という]普遍性への回帰。

 カントはこの「個人的な快と普遍的な規範のアポリア」を「趣味のアンチノミー」と呼ぶ。以下、カントが提示した解決策。

 かれはまず「趣味については議論できない」という格言に使われている「議論(disputandum)」ということばの意味を、証明によって真偽を裁断する「論議(disputieren)」と、他人の判断との一致を要求する「争議(streiten)」とのふたつに区別する。

 つまりどういうことかというと、

 趣味については「証明による議論」(論議)はできない。だがこのことは、趣味に関して他人と互いに一致するという希望のもとに意見を戦わせること、つまり「争議」まで否定するものではない。われわれは趣味について争議できるのだが、これをあやまって論議と考えてしまった点に、解きがたいアンチノミーの由来があるというのが、カントの主張である。

 ヴェーバーの「価値判断」的な考えですかね。『職業としての学問』でヴェーバーは「教壇で、神々の闘争の問題であるところの価値を語るな」と述べたが、とすれば、たとえば野崎歓駒場であからさまに映画に対して優劣をつけている映画論という講義は、いったいいかなる妥当性を持つのだろうか。
 しかしカントも快に関する「共通感覚」なるものを想定してしまう。次は、マーゴリスの有名な解決策。

マーゴリスの4次元

  • 個人的な趣味(personal taste)
    • 単なる好き嫌いのレベル
  • 鑑賞判断(appreciative judgement)
    • 個人的な選好が、一定の理由付けにおいて正当化され主張されるレベル

 これに対してわたしが期待できるのは、わたしの理由が他人の理由ともなりうること、つまりは他人の賛同を得ることである(カントの「争論」のレベル)。
 ところで、個人的なレベルだけではなく、社会的なレベルでも価値判断が主張されることがあり、それらを取り込みながらわたしたちは自分の趣味を生成している。マーゴリスは社会的なレベルの趣味と判断の振る舞いを次のように整理する。

  • 範例的ないし公的趣味(prevailing or official taste)
    • 社会に受け入れられ広く流通している好み(「個人的な趣味」の社会レベル)
  • 評決(findings)
    • 公的趣味(社会に共通の好み)を正当化する理由を呈示するもの(「鑑賞判断」の社会レベル。批評家の論など)

 「評決」は、一定の社会に帰属する誰もが好むと一般に見なされている対象がある場合に、このような社会に共通の好みを正当化する理由を呈示する。したがって、

 だれもがおなじ感じ方をするとすれば、その理由をわれわれは、当の対象に根拠を持つと考えたくなるだろう。それゆえ評決は、ある対象が誰にとっても好ましく良いとされる理由について、あたかも当の対象が、その根拠となる一定の客観的な性質をみずからの属性として実際に持っているかのように記述する。

 つまり、社会的に構築されたある作品に対する価値判断が、あたかもその作品自体が持つ属性であるかのごとく、錯誤されやすいということだ。


 だからこそ、わたしたちが発する「美しい」という言葉には注意せねばならない。

 「美しい」ということばは、ひとつの社会・文化が評決にいたるさまざまな事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として、あたかも裁判の判断を要約した判決主文のようなものである。

 「これは美しい」という判断の実質がなんであるかを記述するためには、人間の普遍的本性の記述ではなく、また人間本性に訴えかける対象の属性の記述でもなく、むしろ評決という振る舞いが遂行される環境全体を、つまりは「ひとつの文化を記述しなければならない」。

 進化心理学的には、若干の異議あり。後ほど考察の予定。