認知科学と社会科学を関連させ強引にまとめてみる

  • 行動主義

デュルケームは行動主義に該当する(正確には機能主義だが)。「彼は本来、心理学的なタームであった意識や表象という言葉を、集合意識、あるいは集合表象という形で社会学化し、いわゆる個人心理学的な領域を設定しなくても、それらの部分は観察可能な「社会的事実」によって説明が付くと主張した」。つまり、カテゴリーの社会起源説を打ち出し、心的とされる事象に対する社会構造の優先性を強調した。

  • 認知主義

レヴィ=ストロース構造主義の操作によって何が消えたか

それは具体的な社会行為者(agent)である。サルトル流の実存哲学へのアンチテーゼとして誕生したいう背景、すなわちそれは、主観性の王国に対する、無意識内の構造からの攻撃であった。(cf.主観性の神話を攻撃したのは主に他にマルクスフロイトニーチェ

社会的行為者(agent)が消えると何が問題か

具体的な文脈における行為者と活動との関係が消滅する。したがって、必要な差異まで消されてしまう。彼の困難さが明確にあらわれたのが婚姻規則に関する議論である。それゆえデュルケームに片足を突っ込んでいた英国人類学者は納得しなかった。

大事なのは

婚姻規則であれ、家屋建築の形式であれ、「ある場合には、それらにある種の構造化された側面が見出されるというのは、否定しがたい事実であり、ゆえに問題は、レヴィ=ストロース的な構造概念を一方的に破棄し、すべては分析者が作り上げた幻想に過ぎないとすることではなく、むしろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、ということを明確にすることなのである」

社会的行為者(agent)を導入すると何が得られるのか

「心的構造の代わりに社会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想を支える暗黙の前提を、いわば再文脈化することが可能になる」
「われわれの様々な社会的実践は、極端に規制されたレベルから、そうした制限がかなり弱いレベルまで、一連の緩やかな分布をみせている。規制の最もキツイ側面は、儀礼が典型である」
「現代産業社会では、ゴフマンが強調するように、社会の全体的な世俗化によって、こうした儀礼的秩序は比較的マイナーな領域に押し込められたが、それでもその片鱗はさまざまな現代版の儀礼や挨拶行為等に見ることができる」

「むしろ近代的諸制度は、そうした儀礼的拘束の部分的撤退を補完する意味で発達してきたものと見るべきであり、共同体中心の儀礼的規則の代わりに、個別の身体をターゲットとして大量に監視・訓練するシステムなどが発達してきたという議論もある(→フーコー『監獄の誕生』)

行為の全体的なスペクトラム

たとえばサッカーのゲーム→行為についての規制がはるかに緩く、われわれは刻々と変化する状況に微妙に対応しながら、瞬時に次の手を打つことになる。

「ある意味で、社会的行為というのは、こうしたスペクトラムのどこか中間点に位置づけられるものであるのは間違いない。そして、この行為の全体的なスペクトラムのどこに焦点を当てるかによって、構造的なパターンがどのレベルで観察可能になり、それが社会的行為との関係でどう位置づけられるか、再文脈化が可能になる」

社会科学に求められている戦略

ある構造的なパターンは、それを否定するというよりは、むしろその構造的パターンを社会的実践の文脈の中に置き換えてやることが大切である。範疇の構造はわれわれの実践的な活動ときわめて密接な関係があり、その文脈で理解されるべきだ。

「社会的行為者を分析の対象から抹消し、そのかわりに抽象的な心的構造をおくことによって、様々なレベルでの、異なる意味合いを持つ構造的発現をすべて同一レベルのものとして扱うという危険をおかすことになる。社会的行為の様々なレベルに現れる構造性と即興性のヤヌスの両面を同時に解明するという戦略が、ある意味で現在の社会科学に求められている課題なのである」

ここでブルデューの実践/ハビトゥスの議論を導入してみよう

  • ブルデューハビトゥスとう概念は、まさにこの構造的感覚を維持しつつ、それを心的構造として無意識の奥底に普遍的に設定するのではなく、日常的な活動レベルに設定したものだ。(構造性と即興性の調停)
  • この概念の基礎は、意味生成の基盤としての身体への執着
  • 世界内に組み込まれた身体性を強調したのは彼の師メルロ=ポンティ、そしてさらに身体技法についてのモースの議論が加わっている

ハビトゥスの概念を拡張すると

ハビトゥスの概念を拡張すると、いわゆる価値観全体にも応用することができる(ex.『ディスタンクシオン』)。

ブルデューのいうハビトゥスとは、まさにこうした身体が構成する、認知・判断・行為の全体的なマトリックスのことであり、当事者の主観的な意味世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤となる」

ハビトゥスと認知(とアフォーダンス?)

「ここでは認知というのは、心的な構造ではなく、社会的身体が繰り出す慣習的行動の中に埋め込まれた、活動の一部分に過ぎない」
「それは社会的環境と身体の間での複雑な相互作用のごく一部に過ぎず、それゆえそれだけを分離させて形式化することなどできない」
「また、身体化された傾向性は、主観の反省の外側にある以上、それは現象学的なアプローチとも異質である」

Gen註:ギブソン的な生態学主義の社会版?とすればアフォーダンスに相当するものは何だろう。関連するものとして、文化心理学の京大・北山センセが「文化アフォーダンス」なんて言葉を作っているが、どこまで理論的に構築されたものなのか。一度チェックせねば。

状況的認知論とハビトゥスとの違い

ハビトゥスは、ある種の弾性のような持続性を持ち、それゆえ対象を構造化する傾向があるとされる。この点で状況的認知論とは異なる。

「船や空港は、あくまで認知活動のリソースや道具に囲まれた場であり、人はそれを様々な形で利用しつつ、それに部分的に制約されつつ、しかし自由に実践(プラクシス)する。しかし社会構造とは、むしろ人と人とのインターラクションの制約の諸レベルであり、それゆえ社会構造とは、単純に活動主体によって操作されるリソースなのではなく、むしろ活動主体間の相互制約の形式なのである」
「状況的認知の研究においては、こうした社会構造的側面は、分析の前面に出てこない」

ブルデュー「ハビトゥス」の限界

身体化されるとは、自動化される(=暗黙知化される)ということだ。では、こうした熟練の達成を可能にする条件とはいったい何なのだろうか。

  • 熟練(暗黙知)の(認知心理学的)研究→熟練の達成を可能にする社会的条件を明らかにできない
  • ハビトゥス理論→熟練の身体化の過程がきわめて曖昧なままに残されている

Gen註:つまりは、認知科学と社会科学をつなげ、ということなのか。

「社会的」実践を考える際の注意

社会的実践は状況に埋め込まれている。が、問題は、それが「どんな状況であるのか」ということだ。状況(文脈)の境界を定義せねばならない。状況についての定式化が必要である。

ここで「正統的周辺参加論」を評価し位置づけてみる

これは

ブルデューやギデンズによって推し進められる方向性を全面的に展開しつつ、心理学的に理解されていた熟練というのが生成する社会的文脈を非常に明確な形で組織的に提示した作品であるということができる」

つまり

この理論の独創性は、「そこに<実践共同体>という概念を打ち立て、社会的実践を、そこへの参加の過程という形で定式化したことにある」

正統的周辺参加論のメリット

「従弟制という言葉が暗示するように、そこには親方あるいはそれに相当する存在がいて、彼をとりまくように、熟練の諸レベルの階層的、同心円的な構造が存在する。こうモデル化することの利点は、社会構造の再生産と、個人の認知的熟達化という心理的側面が、ここで統合されるという点にある」

心理的熟達化の段階は、ここでは実践の共同体内でのゆるやかな向心円的運動として描くことができる。そしてそれぞれの段階での熟達の習得の差は、まさにその共同体内での、物理的、社会的位置づけの差としてこれを措定することができるのだ」

「実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流にいえば、暗黙のうちに学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為のマトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくということなのである」

それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは「熟達のアイデンティティ」と呼ばれている。

LPPのメリットのまとめ

「この周辺から中心への緩やかな移動というテーマによって、組織全体の構造を保ちつつ、しかも徐々に自己革新していく過程や、その中での、新旧世代の潜在的対立とその隠蔽、さらにある実践共同体と他のそれとの、いわば「間-共同体」の問題、といった一連の社会科学にとって最も中心的な問題群への連結の可能性がここで示唆される。」

「と同時に、実践の社会学があまりうまく取り扱ってこれなかった問題領域、とりわけ道具の使用を含む共同体の物理的レイアウトや、より抽象的には技術と実践の相互作用の構造がその熟達のアイデンティティとどう関係してくるかという、いわゆる活動理論が得意とする問題群への通路もまたここに開かれることになる。」

LPPが提起するさらに興味深い点

「とくにここで興味深いのは、実践的活動を支える様々な道具類自体に、その実践がコード化されているという点であろう。この意味では、道具は単に物理的実在というよりは、むしろ<行為者−道具>はそれ自体で一つのユニットとして、社会的実践を行うと考えるべきであろう。」
「この<行為者−道具−実践>の、分離不可能な全体的な配置を次第に構成していく過程で、道具は透明になってゆく。」

Gen註:まさにアフォーダンス的な考えだ。むしろ、アフォーダンスを「構築する」という側面を扱っているのかもしれない。あるいは、アフォーダンスが(社会的に)「構築されている条件」に目を向けさせるということなのかも知れない。