正統的周辺参加論(Legitimate Peripheral Participation:LPP)のまとめ、認知科学と社会科学の橋渡し、LPPはどう「ハビトゥス」を乗り越えたか
よーし時間に間に合った。基本的には『状況に埋め込まれた学習』の福島解説のレジュメ化。
認知科学と社会科学を関連させ強引にまとめてみる
社会的行為者(agent)が消えると何が問題か
具体的な文脈における行為者と活動との関係が消滅する。したがって、必要な差異まで消されてしまう。彼の困難さが明確にあらわれたのが婚姻規則に関する議論である。それゆえデュルケームに片足を突っ込んでいた英国人類学者は納得しなかった。
社会的行為者(agent)を導入すると何が得られるのか
「心的構造の代わりに社会的行為者というものを分析の中心におき、彼らの実践的な活動というものを軸に分析してみると、心的構造という発想を支える暗黙の前提を、いわば再文脈化することが可能になる」
「われわれの様々な社会的実践は、極端に規制されたレベルから、そうした制限がかなり弱いレベルまで、一連の緩やかな分布をみせている。規制の最もキツイ側面は、儀礼が典型である」
「現代産業社会では、ゴフマンが強調するように、社会の全体的な世俗化によって、こうした儀礼的秩序は比較的マイナーな領域に押し込められたが、それでもその片鱗はさまざまな現代版の儀礼や挨拶行為等に見ることができる」
「むしろ近代的諸制度は、そうした儀礼的拘束の部分的撤退を補完する意味で発達してきたものと見るべきであり、共同体中心の儀礼的規則の代わりに、個別の身体をターゲットとして大量に監視・訓練するシステムなどが発達してきたという議論もある(→フーコー『監獄の誕生』)
社会科学に求められている戦略
ある構造的なパターンは、それを否定するというよりは、むしろその構造的パターンを社会的実践の文脈の中に置き換えてやることが大切である。範疇の構造はわれわれの実践的な活動ときわめて密接な関係があり、その文脈で理解されるべきだ。
「社会的行為者を分析の対象から抹消し、そのかわりに抽象的な心的構造をおくことによって、様々なレベルでの、異なる意味合いを持つ構造的発現をすべて同一レベルのものとして扱うという危険をおかすことになる。社会的行為の様々なレベルに現れる構造性と即興性のヤヌスの両面を同時に解明するという戦略が、ある意味で現在の社会科学に求められている課題なのである」
「社会的」実践を考える際の注意
社会的実践は状況に埋め込まれている。が、問題は、それが「どんな状況であるのか」ということだ。状況(文脈)の境界を定義せねばならない。状況についての定式化が必要である。
ここで「正統的周辺参加論」を評価し位置づけてみる
これは
「ブルデューやギデンズによって推し進められる方向性を全面的に展開しつつ、心理学的に理解されていた熟練というのが生成する社会的文脈を非常に明確な形で組織的に提示した作品であるということができる」
つまり
この理論の独創性は、「そこに<実践共同体>という概念を打ち立て、社会的実践を、そこへの参加の過程という形で定式化したことにある」
実践共同体は二つの意味で、前もって構造化されている
- 実践活動を行う他の行為者間の構造
- (実践活動に直接関係する)空間の物理的配置
正統的周辺参加論のメリット
「従弟制という言葉が暗示するように、そこには親方あるいはそれに相当する存在がいて、彼をとりまくように、熟練の諸レベルの階層的、同心円的な構造が存在する。こうモデル化することの利点は、社会構造の再生産と、個人の認知的熟達化という心理的側面が、ここで統合されるという点にある」
心理的熟達化の段階は、ここでは実践の共同体内でのゆるやかな向心円的運動として描くことができる。そしてそれぞれの段階での熟達の習得の差は、まさにその共同体内での、物理的、社会的位置づけの差としてこれを措定することができるのだ」
「実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流にいえば、暗黙のうちに学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為のマトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくということなのである」
LPPのメリットのまとめ
「この周辺から中心への緩やかな移動というテーマによって、組織全体の構造を保ちつつ、しかも徐々に自己革新していく過程や、その中での、新旧世代の潜在的対立とその隠蔽、さらにある実践共同体と他のそれとの、いわば「間-共同体」の問題、といった一連の社会科学にとって最も中心的な問題群への連結の可能性がここで示唆される。」
「と同時に、実践の社会学があまりうまく取り扱ってこれなかった問題領域、とりわけ道具の使用を含む共同体の物理的レイアウトや、より抽象的には技術と実践の相互作用の構造がその熟達のアイデンティティとどう関係してくるかという、いわゆる活動理論が得意とする問題群への通路もまたここに開かれることになる。」