ハビトゥスと認知(とアフォーダンス?)

「ここでは認知というのは、心的な構造ではなく、社会的身体が繰り出す慣習的行動の中に埋め込まれた、活動の一部分に過ぎない」
「それは社会的環境と身体の間での複雑な相互作用のごく一部に過ぎず、それゆえそれだけを分離させて形式化することなどできない」
「また、身体化された傾向性は、主観の反省の外側にある以上、それは現象学的なアプローチとも異質である」

Gen註:ギブソン的な生態学主義の社会版?とすればアフォーダンスに相当するものは何だろう。関連するものとして、文化心理学の京大・北山センセが「文化アフォーダンス」なんて言葉を作っているが、どこまで理論的に構築されたものなのか。一度チェックせねば。