馬場ルーマンノート

 山脇論文の批判的検討&「どうせ翻訳されてないですけど」的発言にワロタ。やはり届いてますか。いくら「理想主義的現実的」な公共性を叫んだところで、あくまでそれもあるシステムが現実を見るときの一つの視角にすぎない→社会変革はムリ。的な論調だった記憶が。あとは、ルーマンの「制御(差異を最小化するために差異を設ける:目標値と現実を近づける)」を持ち出しつつ。

 授業的には

フロイトの「真剣/戯れ/現実」の図式の援用

  • 真剣→ある区別を前提として(盲点として)採用している。世界は今見ているとおりでしかあり得ない。すなわちファーストオーダーの観察。
  • 戯れ→区別にはその本質からし不定性・矛盾・空白が孕まれている。区別を区別に適用することによってそれを明らかにしうる。(ex.<合法/不法>の区別は合法か不法か)
  • 現実→ある区別を、別の区別によって(「無」や「矛盾」によってではなく)記述し、全体社会の中に位置づける、相対化する(棄却する)

ふむふむ。わかりやすい。「戯れ」は矛盾というものの本質化、「現実」はシステム外からの相対化といったとこかな?人は「真剣」と「戯れ」の間を揺れ動き、それから出るためには「現実」しかない?アイロニカルな態度とは何か?

脱構築=セカンドオーダーの観察

あくまで(例えばサイードのように)世俗的なものを地道にぶつけてゆくしかないという科白、とりあえずは頷いてしまいました。

ルーマンの出発点→それぞれ普遍的であるが故に調停不可能な複数の世界

これは本当にそうだよな。それぞれ普遍的、だからこそ唯一ではなく複数ありうるんだよな。ルーマン抜きでも納得。

 「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日(『文化人類学のフロンティア』所収)

 あまり強調されてこなかったが、文化人類学のなかで都市人類学が登場したそのときから、全体的に自己完結する閉じられた民族誌を超えた、「開かれたシステム」「自己完結しない系」と取り組む「開かれた民族誌」が目指されたといえる。(p.66)

フローとして、アカルチュレーション論(文科変容論)を内包して、動きの中で文化を捉える試みに成功した論文に早く出会ってみたいな。

 形態としての都市、生態としての都市←→都市社会(人々の相互作用の総体としての都市)

こんな区別があるわけですか。

 民俗の英語folkloreは、folkとloreに分節されるが、folkとは人びと・民衆・生活者であり、loreとは知識である。フォークロアとはすなわち民衆の知識である。これには、民俗と呼んできた考え方より、フーコー現代思想がいう民衆知の考え方の方が的を得ている。(中略)レヴィ=ストロースのいうブリコラージュがこれに近い。

ふむふむ。「民衆知」という概念を洗い直してみますか。「ブリコラージュ」に関しては小田亮さんの日常的抵抗論なんかはこれの色合いが強い気が。

 前掲書より 都市社会学と都市人類学の違い

さあ、最もアツい箇所がこちら。

 都市人類学は、都市の全体性を鳥瞰的に示すのではなく、どこか考察のプロセスであるいはその分析方向が指し示す延長線上で、都市の全体性の「断面」を示してその全体性を「示唆し」ながら、逆にきわめて繊細で微的な都市住民の「喜び」や「悲しみ、つらさ」の中の人びとの踏ん張りや営みを描こうとする。こうして、都市人類学は、心意という人間の心中にあるきわめて繊細な動きと、都市全体の構造性という巨大性とを架橋して、そしてあくまでも人間から都市へ、微細から巨大へ、部分から全体へ、下から上へという方向性をもって、都市社会の生活像を描くものであり、そこにオリジナリティがあると考える。

 つまり、(都市)社会学を全体→部分、システム>人びとの心意、構造性→微細として見ていて、文化人類学はその逆だというわけか。どうだろう。ここに文化人類学社会学の差異を見ることはできるのか?ミクロな社会学をどう考えるか。
 あるいは「心意」というタームに鍵があるのかもしれない。文化人類学は「心意」を含めて記述を行ってゆくものだ、それゆえに構造化された理論の提出は難しい、と。やたらと「(日常的)抵抗」というタームが文化人類学で用いられるのもそのためなのかもしれない。

 「開発人類学再考」玉置泰明(『文化人類学のフロンティア』所収)

 潜在能力(capability)とは、ある人が選択できる一連の代替的な機能(functioning)の集合と定義される。機能は人びとがもっている能力が発揮された状態を指す。そして貧困とは基礎的潜在能力の剥奪(状態)であり、潜在能力の拡大こそが開発(ないし公共政策)の目的ということになる。「開発倫理学」という分野を開拓したゴーレットは、「社会がより人間的あるいはより発展しているのは、人びとが『より多くを持つ(to have more)時ではなく、『より多くある』(to be more)ことができる時である」というが、「より多くある」とは潜在能力が発揮された状態ということであろう。

 潜在能力の中身を文化・社会に即して考えることが、新しい開発人類学の重要な役割となるだろう。「潜在能力アプローチを適用するには、その文化に内包されている促進されるべき価値がなんであるかを識別する必要がある」。そのためには、価値の人類学などの有効になる。それは、各社会における社会哲学あるいはよき差異の追求の在り方と言い換えても良いだろう。

 うーん最後はアマルティア・セン敷衍的か‥。「人間の安全保障学」ってやつですか。
http://human-security.c.u-tokyo.ac.jp/
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hs/
 可能性は凄いが、たしかに。でも、何かひっかかる。なんだろう。まだ言葉にはできないが。