「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日(『文化人類学のフロンティア』所収)

 あまり強調されてこなかったが、文化人類学のなかで都市人類学が登場したそのときから、全体的に自己完結する閉じられた民族誌を超えた、「開かれたシステム」「自己完結しない系」と取り組む「開かれた民族誌」が目指されたといえる。(p.66)

フローとして、アカルチュレーション論(文科変容論)を内包して、動きの中で文化を捉える試みに成功した論文に早く出会ってみたいな。

 形態としての都市、生態としての都市←→都市社会(人々の相互作用の総体としての都市)

こんな区別があるわけですか。

 民俗の英語folkloreは、folkとloreに分節されるが、folkとは人びと・民衆・生活者であり、loreとは知識である。フォークロアとはすなわち民衆の知識である。これには、民俗と呼んできた考え方より、フーコー現代思想がいう民衆知の考え方の方が的を得ている。(中略)レヴィ=ストロースのいうブリコラージュがこれに近い。

ふむふむ。「民衆知」という概念を洗い直してみますか。「ブリコラージュ」に関しては小田亮さんの日常的抵抗論なんかはこれの色合いが強い気が。