「美的経験」の論理的根拠
外の神社で「福はう〜ち」とか連呼してるおっさん、うるせえ‥。アートを純粋に哲学されると引くのだが、面白いことは疑いえない。テスト対策兼。基本的に『現代アートの哲学』に依拠。
作品の美的経験は、その作品が生み出されたアートワールドの文脈や、それが帰属する様式のクラスといった、その作品が位置する現実の歴史についての知識を前提とする。
なにも美術史的な知識だけが、アート鑑賞に際して動員されるわけではない。「真理の経験としての芸術」という考え方が広く受け入れられている。
詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考え方は、古くからある。
そしてこのような「芸術作品を介しての内的真理のかくれない開示とその享受、共有という基本構図」は、近代に強化された。
このような考え方は、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的、共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張し始めたとき、いっそう純粋な形で強調されることになる。‥それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学の中で体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。
たしかに我々は芸術を真理の一端を示すものとして経験する。だがそれは、
あくまで、美的経験のあとにつづいて、わたしという一個人、あるいはわたしが帰属する共同体にたまたま生じた経験である。論理的にいうかぎり、作品そのものが、そのようなあらたな現実経験への指示を直接に与えるわけでも、またつねに与えるわけでもない、つまり絵画経験の本質がそこにあるわけではない。
そこで、絵画の美的経験(視覚イメージ)と、それが参照するコンテクストを、区別して考える必要が出てくる。(ミメーシスと現実との論理的関係)
予備知識無しに美術館に行って楽しめるのは、あくまで「描写のレベル」だけだ。レンブラントへの歴史的知識が「肖像のレベル」を可能にする。
歴史的知識にしても、この絵の描写レベルの美的経験を深めるのに役立つのであって、これとは逆に、絵が歴史的現実についてなんらかの認識を与えるわけではない。‥「画家自身が作品の中に現前する」というシャピロの主張も、美術史の命題としては正しいとしても、この作品を見る経験としては、やはりいいすぎといわなければならない。
絵の意味論的レベルとしての描写と肖像とを区別しない、混同したいいかたに溢れている。
それ自体非言語的でメッセージをもたないものを、一定の「文の省略形」にするためには、もちろんそれにさきだって、特殊な言語的習慣と合意が必要である。‥伝統的には、作品は、宗教画や歴史画、寓意画、宗教音楽や典礼音楽など、一定の慣習に従ってコンテクストの中でつくられ経験されて、モラルや宗教やイデオロギーなどの代理、省略としての社会的機能を果たしてきた。
まぁバルト的なシニフィアンのレベルとして、ってトコですか。まとめると
一枚の絵それ自体の論理上の身分を問題にする限り、それはどこまでも描写であり視覚デザインであって、それ以上に人生についての教訓や教義に関わる命題を主張しているわけではない。それゆえ、これに真理性を要求することはできないだろう。
近代美学の混乱の原因
これはなかなか鋭い指摘ではないだろうか。
近代は、芸術をそのような作品外の習慣のコンテクストから引き離して、その自立性を強調してきた。近代美学の混乱は、一方でそのような自立的な作品の純粋に美的・芸術的価値を強調しつつも、他方で、あいかわらず作品を命題の省略形とする習慣に依拠しつつ、従来通りのやり方で、その真理性を主張できると考えたところにあった。
その上でアンディ・ウォーホルなどの現代アートを考えると、こうなる。
現代では、社会的コンテクストから遊離した美的モダンに対して、意図的に社会的コンテクストのなかに作品を再定位し、これによってアートの経験を現実経験に接合しようとする傾向がいちじるしい。
便器をアートのコンテクストにおいたマイルストーン、マルセル・デュシャンの『泉』――そういえば、この前の朝日新聞では『泉』ではなく『噴水』という邦訳題こそが正しいと主張されていたが――のポイントは、
それはつまり、デュシャンのもくろみどおり、かれが破壊しようとした制度の側によって、「泉」という作品を、ある命題、たとえば自分たちの芸術を非難し告発する主張の省略形として用いさせたということである。
芸術における「よき趣味」とは何であろうか
アートに対する趣味は得てして価値判断される。
大衆化に伴って衰退したもの、それはかつての西洋近代の文化を支えてきた教養主義であり、そのような趣味=教養の発露としての「芸術」概念である。逆にいえば、「よき趣味」と「悪趣味」が峻別されるようになったのは、「高貴で美しい芸術」概念が確立する17、8世紀だということである。
「よき趣味」という<芸術に対する>価値判断は、当の芸術を鑑賞する人物の<人間性に対する>価値判断と不可分であったことは注意すべきだろう。美的=道徳的な水準。
フランス古典主義の「よき趣味」とは、パリを中心とした都会の貴族やブルジョアたちのエリート階級が所有する高級文化の規範であるが、それはまた、かれらが理想とした紳士淑女、つまりhかれらが普遍的と考える人間性の規範でもある。それゆえ、これに対するvulgarな趣味つまりは悪趣味は、人間性の価値の根幹にかかわる欠落として、美的であると同時に、あるいはそれ以上に、道徳的・階層的非難と拒絶のことばとして形成された。
それでは、芸術の趣味を価値判断することはそもそも可能なのだろうか。わたしならば「物語論てきに、個人各々の経験はそれぞれにとって真実である、ゆえに客観的価値の判断は不可能だ」と考えるが。そうすると、アンチノミーというかアポリアが生じる。つまり、「批評はなぜ可能なのか」という問題だ。
もしも趣味が、個々人の快を感じる能力だとすれば、「各人はそれぞれ自分自身の趣味を持っている」ということになり、それゆえ古くから知られた「趣味については議論できない」という格言をうけいれざるをえない。だがそうなれば、趣味が一つの判断として、ある種の普遍性を要求できなくなり、批評の意味がなくなる。
この二律背反に対する解決策を、色々な思想家が提示してきた。
カントはこの「個人的な快と普遍的な規範のアポリア」を「趣味のアンチノミー」と呼ぶ。以下、カントが提示した解決策。
かれはまず「趣味については議論できない」という格言に使われている「議論(disputandum)」ということばの意味を、証明によって真偽を裁断する「論議(disputieren)」と、他人の判断との一致を要求する「争議(streiten)」とのふたつに区別する。
つまりどういうことかというと、
趣味については「証明による議論」(論議)はできない。だがこのことは、趣味に関して他人と互いに一致するという希望のもとに意見を戦わせること、つまり「争議」まで否定するものではない。われわれは趣味について争議できるのだが、これをあやまって論議と考えてしまった点に、解きがたいアンチノミーの由来があるというのが、カントの主張である。
ヴェーバーの「価値判断」的な考えですかね。『職業としての学問』でヴェーバーは「教壇で、神々の闘争の問題であるところの価値を語るな」と述べたが、とすれば、たとえば野崎歓が駒場であからさまに映画に対して優劣をつけている映画論という講義は、いったいいかなる妥当性を持つのだろうか。
しかしカントも快に関する「共通感覚」なるものを想定してしまう。次は、マーゴリスの有名な解決策。
マーゴリスの4次元
- 個人的な趣味(personal taste)
- 単なる好き嫌いのレベル
- 鑑賞判断(appreciative judgement)
- 個人的な選好が、一定の理由付けにおいて正当化され主張されるレベル
これに対してわたしが期待できるのは、わたしの理由が他人の理由ともなりうること、つまりは他人の賛同を得ることである(カントの「争論」のレベル)。
ところで、個人的なレベルだけではなく、社会的なレベルでも価値判断が主張されることがあり、それらを取り込みながらわたしたちは自分の趣味を生成している。マーゴリスは社会的なレベルの趣味と判断の振る舞いを次のように整理する。
- 範例的ないし公的趣味(prevailing or official taste)
- 社会に受け入れられ広く流通している好み(「個人的な趣味」の社会レベル)
- 評決(findings)
- 公的趣味(社会に共通の好み)を正当化する理由を呈示するもの(「鑑賞判断」の社会レベル。批評家の論など)
「評決」は、一定の社会に帰属する誰もが好むと一般に見なされている対象がある場合に、このような社会に共通の好みを正当化する理由を呈示する。したがって、
だれもがおなじ感じ方をするとすれば、その理由をわれわれは、当の対象に根拠を持つと考えたくなるだろう。それゆえ評決は、ある対象が誰にとっても好ましく良いとされる理由について、あたかも当の対象が、その根拠となる一定の客観的な性質をみずからの属性として実際に持っているかのように記述する。
つまり、社会的に構築されたある作品に対する価値判断が、あたかもその作品自体が持つ属性であるかのごとく、錯誤されやすいということだ。
だからこそ、わたしたちが発する「美しい」という言葉には注意せねばならない。
「美しい」ということばは、ひとつの社会・文化が評決にいたるさまざまな事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として、あたかも裁判の判断を要約した判決主文のようなものである。
「これは美しい」という判断の実質がなんであるかを記述するためには、人間の普遍的本性の記述ではなく、また人間本性に訴えかける対象の属性の記述でもなく、むしろ評決という振る舞いが遂行される環境全体を、つまりは「ひとつの文化を記述しなければならない」。
批評という言説
そもそも範例的趣味とは、個人的な趣味とその鑑賞判断に関する「争論」をつうじてのコンセンサスという形で徐々に形成されて、一定の慣習や規範となり、伝統としての安定性を獲得したものである。逆に、個人的趣味の担い手である個々人にしても、‥つねに範例的趣味の影響下で、美的教育などを通じてそれぞれの趣味を養ってきたのである。
伝統的美学において趣味は、個人の主観的内面ないし人間性といった、いずれにせよ外部世界から自立した領域の問題とされてきた。趣味のアンチノミーは、ここに由来する。これに対して、文化という全体的コンテクストにおける、それゆえ相互に作用し合う二つのレベルの振る舞いからなる複雑で動的な過程としての趣味を、われわれは、ここでもあの、制度としての発話というフーコー的な意味での言説(ディスクール)ということばをもちいて、「批評的言説」と呼ぶことができるだろう。
まぁ正直とくに目新しさはない論だな、と。面白かったのは
いわゆる目利きや批評家のしごとは、比較的安定した相対主義のなかで、個人的趣味と範例的趣味というふたつのレベルのあいだを媒介することである。
という記述。
科学的事実が単に社会的構築されたものではなく、社会と物理的世界の双方を調停するスポークスパーソンたる科学者によって生み出されたものであるように、アートにおいても、作品(あるいは芸術家)固有の「なにか」はあるのだと感じる。それは進化的に育まれてきた心的機構に基盤を持つある種普遍的な快感覚を誘発する「なにか」なのかもしれない。
科学的データを評価するのは科学の生産者たる科学者の共同体だが、芸術の場合、アート生産者の共同体がアートの評価を必ずしも決めるわけではない。批評家という奇矯な連中が巣くっている。まぁいかにネットワークを組むのかということでもあるのだろう。時間切れで考察はあとまわし。