「文化」の分類・解釈・体系化を試みる文化人類学

 とはいえ、収集・保存だけではなく、「文化」に対する何らかの分類や解釈、体系化が行われるのが通例です。最も広範囲に用いられている方法は「比較」です。ひとつは機能主義や構造主義に代表される通文化的比較、もうひとつは歴史人類学に代表される通時的(歴史的)比較です。あるいは、象徴人類学では、「文化」を象徴的に解釈しようと試みます。ギアツの解釈人類学や山口昌夫の記号論もこれにあたるでしょう。レヴィ=ストロースはこう述べています。

……数百年後に、この同じ場所で、他の一人の旅人が、私が見ることができたはずの、だが私には見えなかったものが消滅してしまったことを、私と同じように絶望して嘆き悲しむことであろう。(レヴィ=ストロース、『悲しき熱帯』)

やはり人類学者は「データを解釈してなんぼ」という意識を持っているのでしょう。そしてデータを解釈する際に依拠する分析枠組みは当然自らが属する文化(学問的)価値観であるので、研究者が意図せずとも「近代西洋的な概念で読み解いて」いるといえるでしょう。


 ただし、「文化人類学者のやろうとしていること」は、概して「近代西洋的な概念*1」自体を相対化することにあるといえます。レヴィ=ストロースも「私には見えない」と言うことでこのことを自覚しています。彼の代表的著作『野生の思考』は「未開の思考」が「科学的な思考」と変わるところが無いことを示そうとしました。彼は「近代西洋的な概念」を問うている。しかし同時に自らの分析(語り)に「未開」を回収してしまったともいえる。難しいところです。

*1:自分自身が依拠している分析枠組み