さらにデリダ「差延(differance)」を紐解いてみる復習メモ。優等生?的に。

■背景

 デリダ形而上学を批判した。すなわち、「世界の背後に永遠普遍の真理、ロゴスの世界が存在し、この世界はロゴスの世界の投影(現前)であり、仮の世界である」という考え方を糾弾した。その考え方では、同一性(あるものが同一性を保つこと)の原理をささえるのは、ideaであり、それを媒介するものとしてのlogosであり、声(phone)であり、現前性(presence)であった。


 ヘーゲルに至ると、主観的精神と客観的精神が止揚された最高の段階が絶対精神であり、世界史は絶対精神の自己実現の過程とされる。すなわち、同一性・差異性は絶対精神に支えられており、logosが世界を絶対精神・歴史の終焉に導くと考えられた。


 その後ヘーゲルを批判した数々の哲学者たち。フォイエルバッハ(類的存在)、マルクス(労働)、サルトルetc..。彼らを概観したデリダはこう述べる――「哲学はもろもろの対立カップルに基づいて構築されている」、すなわち二項対立によって成り立っていると。形而上/形而下、能動性/受動性、原因/結果、無限定/限定etc...。これからの脱却(ズラし)へ。


差延

 差延(differance)は「戯れ」である。difference/differanceの差異は発音上は同じであるため、音声によっては区別されないが、書かれることによって意味をもつ。このdifferanceは形而上学の音声中心主義が抹消してきた差異の運動、原-エクリチュールの運動を象徴する。


形而上学が想定するどんな根源よりも"根源的"な運動である。しかし同定可能な根源の同一性そのものが差延の効果に過ぎないから、差延の根源とは、根源の不在以外の何ものでもない。


 では同一性をささえているものは何か。AがAである、すなわち反復しても同一性は不変であるとみなすことは、形而上学のたまものである。本質が同一性を支えているのではない。差異と反復*1が同一性を仮構*2する。差異と反復、すなわち差延の運動に先立つ本質は存在しない。同一性は、「差延のシステムに書き込まれた一効果」である。


 ニーチェは「世界はテクストである」と述べた。世界はつねに/すでに解釈されたテクストとして現前する。存在するのは本質ではなく、一瞬前のテクストである。一瞬前のテクストが現在を痕跡として支えている。この世のあらわれはすべて、時間的・延期化作用のなかにその要因がある。痕跡が投射(project)され続ける運動として、同一性が保たれている。


 デリダは「戯れ」という。だが彼は形而上学の外に出る/別の形而上学を打ち立てるのではなく、真理性への欲望を持続しつつ絶えず解体/改体する。それは単なる否定・批判ではなく、肯定の運動といえる。そしてこの「脱構築」には、責任が不可分に絡んでくるのである。

 「逆に、われわれはそれを肯定しなければならない――ニーチェが或る笑いのうちに、そして或る種の舞踏のステップを踏みながら、その肯定を戯れさせるときのあの意味で」

*1:もちろんこれはrepeatではなく、ズレてゆく運動であるが

*2:つまり同一性は対応する本質的な実体に担保されているわけではなく、あくまでも「仮」である