デリダのdifferance(差延)への理解が深まったというメモ。

 ソシュールなんかだと記号(シーニュ)と記号の間の差異が意味をもたらしているのであって、言葉はそれに対応する本質的な実体を持たないという話になるわけですが、デリダの「差延」を捉える時になるほどなと思ったはなし。


 差異は時間とともに揺らぐ。すなわち差異は固定化されたものではなく、揺らぐものであり、常に(決定が)延期され続けている。到達点、出発点はない。「差」異は「延」期され続けている、ゆえに「差延」。なるほど。


 「差延」というタームの核心は*1、「差異と反復が同一性を仮構している」というところにあるのだろう。痕跡と差延しかない、と。それにしても何故根源を問わないデリダが「原-エクリチュール」というのだろう。この際の「原」は何を指し示しているのだろう。「差延以前には何もない」ことを指し示すために、「原」という言葉を用いたのでしょうか?この「原」の解釈は深い意味を持つのではないか。高橋哲哉はこの「原」からレヴィナスにつなげている印象を受けますが、これはあくまで一解釈でしょう。要考察。ヒントをください‥

*1:もっともデリダ的には「核心」など捉えられてはならないのだろうが