心脳問題について

 さて、最近話題となっている心脳問題について。脳の言語(脳科学的記述)によって、人間の「心」を記述しようとする試みは、上記の意味の「モデル」としては非常に面白いと思います。その可能性の追求によって「心」についてどのような新たな意味の地平が見えてくるのか、とても興味深い。
 一方、「カテゴリーミステイク」だとさんざん指摘されているように、人間の意味世界を脳の言語によって記述し尽くすことは不可能です。脳内活動への人間的意味を与えているのは意識生活の報告であって、その逆ではないからです。「痛い」という人間的意味世界の言葉による意味づけがまず先行する。その後、「痛い」という言語的意味づけに相当する脳の活動を対応させている。脳内活動は意識生活の随伴現象の単なる確認であって、説明ではない。
 ただし、脳内化学物質を操作すれば、「痛い」という感覚を消すことができる。「痛み」に対応する神経反応を除去すれば、「痛み」の感覚は生じない。これは人を動揺させます。薬を飲めば「心(ex.「痛い」という感覚)」そのものが消えてしまう。リアルな感覚としては、「心=脳」であるかのように思われる。
 脳言語と人間の意味世界は「カテゴリーミステイク」ではあるけれども、どちらか一方が欠ければ「心」は存在することができない。さながら、<シニフィアンシニフィエ>が不可分に一体となって記号(シーニュ)を形成し、どちらか一方を取り除くと記号そのものが消滅してしまうかのように。
 そうです、「心」とは記号(シーニュ)に他ならない。シニフィアンしだいでシニフィエが異なってくる。ゆえに、「研究者が解き明かそうするモノ」に依存して「心」の内実は決まり、どのようにでも「心」はありうるのではないでしょうか。大切なのは、あるモデルからどのような意味が見えてくるかです。


 さて、ロボットがある刺激に対し人間と同様の反応を示す(人間のように振る舞う)ようになったとき、私たちは「ロボットは<心>を持っている」と言うのでしょうか?