ナラティヴ・セラピーとフィールドワーク

 臨床心理筋や社会学物語論筋の方には有名なナラティヴ・セラピー。定番の一冊『ナラティヴ・セラピーの世界』を以前読んだことがあったんですが、今集中講義で行われている「フィールドワーク再考」という授業で、ナラティヴ・セラピーとフィールドワークが結びつけられていたのでメモ。


 グリシャン&アンダーソンが提出した「無知(not-knowing)のアプローチ」という概念。それは

「対話の空間を拡げてそれを促進する姿勢」
「セラピストの旺盛で純粋な好奇心がその振る舞いから伝わってくるような態度ないしスタンス」

である。この「無知のアプローチ」の対極にあるのが「確立された理論や病理モデルを念頭においたりあらかじめ用意された治療テクニックでもってクライエントに当たるようなスタンス」である。さて、臨床心理はひとまず措いておいて、フィールドワークとの関連で重要になってくるナラティヴ・セラピーの要素は以下の3点にまとめられるという。大切なのは「会話のための空間を拡げること」。

1.「相手とともに」語る
 「相手に対して」語るのではなく、「相手と共に」語るというスタイル。会話を通して、いままでになかった新しい意味・新しい筋書きを、共同で探索してゆく作業。会話の空間を拡げる。話し手が、自分の説明には意味があって、意義を持ち、(相手に)非常に好奇心を持って聴かれていると思うことによって、自分の考えにたいして防衛的になったり、説得しようとしたりする必要が無くなる。

 あたりまえのことですが、普段これを見過ごしてる人が大杉。相手の語りを「聴く」ことが出来ない人、多すぎ。「オレオレ」が多いなあ‥。自分も例外に漏れず。とりあえず相手の語りの中に潜り込んでゆかないと。

2.「理解の途上にとどまり続けること」
 聞き手が話しての言うことを早く理解すればするほど、両者の対話の時間はより短いものとなる。相手に敬意を払い、しかし、相手を理解していない。早すぎる理解は、新しい意味が生まれてくるチャンスを潰し、誤解や勘違いを生む可能性も大きくする。理解の途上にとどまり続けることは、理解する作業を放棄するのではなく、むしろ聞き手自身の理解の範囲に限界があることを話してから教えてもらうことである。

 「理解」を早く行えば行うほど、新たな語りの生成のチャンスをぶっ潰してしまう。とにかく粘り強くとどまれ、と。

3.「ローカルな言葉の引用」
 一人称で語られる体験を専門用語に置き換えないで、話し手が使うローカルな言葉で語り合うこと。「無知の立場」からの質問は、ローカルに(その対話の場に限定して)形成される理解と、ローカルな(対話の中でのみ通用する)ボキャブラリーに行き着く。ここで「ローカル」というのは、対話する人のあいだで発展する言葉や意味のことであって、ある地方や文化で共有される方言とか語り口のことではない。人が自らの人生の経験を実感するのは、ローカルな言葉と理解を通じてである。

 これが一番重要な気がする。つまり相手の物語世界や語彙の中で語ると言うこと。そこに共同の言語空間を作り上げるということ。たとえば相手が「存在」といったとき、それが何を意味しているのか、自分がしっくりくるまで、言葉を重ねて粘り続けねばならない。相手の世界にスッと入り込むようなイメージで。
 痴呆老人相手に看護する生業の女の子はこう言っていた。「相手がボケていても決して嫌ってわけじゃない。朝なのに相手が「夜だ」と言い張るならば、食事を出すとき、それは夕食として出さなきゃなんない。昼なのに相手が「朝だ」と言うならば、「朝ご飯ですよ」といって出せばいい。そうすると、フッとその人の世界に入ってゆける気がするの。その人の世界の中に自分も入ってみる。そうすると、そこに双方向の流れはあるから」
 村上春樹も彼の小説の冒頭でたしかこのような趣旨を語っていた。「平凡な大学生活でしたよ。けれど僕に人と違うところがあったならば、とにかく相手の話をとことん聞いたということですね」


 人と語るとき、最大限のものを得たいならば、とにかく「聴く」こと。相手のボキャブラリー、相手の物語に寄り添い、共同でつくりあげた言語空間で、さらに物語を紡いでゆくこと。「聴く」ことが出来る人って、本当に少ない。勿体ない。これで人生だいぶ変わってくるのに。そして「聴く」プロフェッショナルがカウンセラーだ。また、文化人類学者/社会学者/文筆業者etc...もフィールドワークを行うならば、とにかく「聴く」能力を身につけることだろう。普段の会話でも、最近はこれを強く意識している。けれども、理想論的に語るほど、簡単なことじゃない。でも、この方向しかない。