フーコー『監獄の誕生』発想メモ

付記。生-権力とdiscipline型権力をあいまいに考えてたことを猛烈に反省。とりあえずここではぼかして「権力」ということで*1。そして、internalization≒自動化が大事なポイントだとするならば、暗黙知の話とつなげても可能性があるのではないかと思った。
邦訳版のp.157を読んでいて思ったのだが、身体に働きかけてくる様々な規律・訓練(discipline)に、「権力」という語を用いることに、時には慎重にならねばならないのではないか。人間の行為が「規律→意図(計算過程)→行動」モデルですべて語りえないことは認知科学的にも明白になってきている以上、フーコーの「権力」が本当に権力と語りうるものであるのかどうかを吟味しても面白いかも。つまり、アフォーダンスや京大の北山のいう文化的アフォーダンス*2が「権力」装置であるのかどうかということだ*3。認知モデルと権力論の結合。そういう研究がすでにあるのか、あるいはまだないのか。生態心理学×文化人類学的フィールドワーク×discipline論の掛け合わせは面白いかも*4

*1:なにせ『セクシュアリテの歴史』はまだきちっと読み込んでいないから‥。今週中に。

*2:これはブルデューハビトゥスにかなり近いんじゃないかと個人的に思うのだが詳細はつめていない

*3:あ、でも文化的アフォーダンスを「ハビトゥス」と捉えた時点で権力論から逃れられなくなるか。とすれば、純粋にギブソンアフォーダンスの水準でってことか?うーむ

*4:やっぱこれは的はずれなかもな。俺の誤読かも