「説明の様式について」(in東京大学東洋文化研究所紀要第百六十冊)

ギアツの解釈学は、文脈依存的な発話(discourse)がテキストとして定着化されることによりもたらされるある種の客観化と同様の過程を、行為とテキストにおいても見出し、それによってちょうど発話がテキスト化されることによって、その発話者や文脈から分離されると同様に、行為もまた「なされた事」として、その文脈や行為主体(agent)およびその意図や動因から分離され、社会的行為としてテキストに銘記(inscribe)されることになるという枠組みである」

「ここではテキストの解読に於ける解釈学的な循環ではなく、むしろ流動する発話や行為を、テキストに固着させるという側面が前面に出ており、そうすることによってこれら発話や行為は客体化され、文脈から分離されるというのが味噌なのである」

リクールもそもそもこのような解釈学の不徹底を持っているという。だが待てよ。個人の行為から社会理論を導き出す際には意味論的(解釈学的)アプローチが限られた有効性しか持ち得ないとはいえ、一個人が実際に生きている現実は、物語の世界である。文化人類学として一個人の物語世界に介入するようなアプローチはないのか?それは医療人類学やライフヒストリー研究になるのか?その際にギアツを考えるとどうなるのか?