ドッグヴィル@吉祥寺バウスシアター

前評判に違わず面白かった。賛否両論あったと聞くラストシーンは、まさにああいうラストだからこそあの映画がエンターテイメント性を獲得するわけで、実に心地よくストレス解消。観後感の爽快さとスカッとする感じは映画の中でも屈指のものだろう。83点。

アメリカを皮肉ったというよりは共同体が孕む性質そのものを象徴的に描いているこの映画。イラク人質事件時の日本の反応、あるいは身近なサークルなどの集団力学とオーバーラップする部分も多い。それは自己の行動を「共同体のために良かれと思いやっている」と正当化したときに生じるさまざまな横暴さに関連する。「自己責任」「小泉が悪い」「自己責任の論調は日本人の愚かさだ」等々の言説が叫ばれたとき、自己を棚上げにして大きな言葉/概念=共同体のために!と酔った人々。「イラクの人々のために!」「助けを求めている子供たちのために!」。「○○のために」型思考の暴力性。決してわかることの出来ない他人の物語をわかった気になり「ボランティアをしていた人質3人のために頑張ろう!」などと叫んだとき、そこにはまさにドッグヴィル的終末が見え隠れしていたに違いない。他人固有の物語はわからない。結局は「沈黙せざるをえない」という諦念から出発しない言説は、極度に快感ではあるが、すべて過剰な暴力性を孕むのだ。さてこの映画、ラストシーンは現実ではありえない救済であり、ラース・フォン・トリアー監督のプレゼントに胸が躍った。それが「映画」だ。

id:blindsight20040418さんの巧みなレビュー。

 共同体は、言語化されない「注視」と「黙認」のルールの網の目によって成り立ち、その適用は極めて恣意的である。通常はそれが問題となることは無いが、何らかの異物が混入したり許容範囲外の変動が生じた際に、その恣意性は遺憾なく発揮される。もちろん、言語化されること無く。あるいは「相手の為」「共同体の為」という理由を借りて。

 「親愛」「庇護」としての注視が、「監視/拘束監禁」としての注視に姿を変える。「寛容性」としての黙認が、「忌避/憎悪/攻撃性」としての黙認に姿を変える。

 共同体を支えるのは、共通の「被害者意識」だ。それは内部への共感と、外部(内部における「外部」も含む)への攻撃性によって構成され、攻撃を正当化する作法を巧みに、無意識のうちに醸成する。


白線のみのセットについて。可視なものをあえて不可視なフリをして生きる人間らしさが巧みに「可視化」されていて面白い。あとはニコール・キッドマン、文句なし。

また、エンドロールの部分で数々のリアルな写真が提示されたが、これはドッグヴィルがあくまで作られた舞台だということを鮮やかに提示したといえよう。現実との乖離感。実社会の中で生を営む一人の人間として、私はドッグヴィル的世界に対するよりしっくりくる自分なりの姿勢を模索し続けねばならないと諭された気がした。カタルシスにとどまってはいられないのだ。