自分の社会的・組織内的位置そのものが自己アイデンティティを定位している

(p.190)

 組織の社会的仕組み自体に、構成員に関する完全に包括的な考え方――すなわち単なる構成員としての彼に関する考え方ばかりではなく、その背後に人間存在としての彼に関する考え方――が、組み込まれているのだ。

(p.197)

 私が関心を抱いているのは、組織内で期待されている活動には行為者に関する考え方が含意されていること、したがって組織はアイデンティティに関する非明示的仮定を発生させる場所と見なすことができる、という事実である。

 営造物の敷居をまたぐと、個人は状況に注意を向け、適切に定位し、それに調子を合わせる義務を引き受けるのだ。‥彼は該営造物ならびにそこで彼に帰属させられた自己像に対する自分の態度を一見それとわかるように確立するのだ。規定通りの心構えで特定の活動に従事することは、特定の種類の世界に住む特定の型の人間としての存在様態を受け入れることに等しい。

 規定をかわすことはアイデンティティをかわすことなのだ。‥特定の社会的営造物が自己に関する含意を体系的に生ずる場所として見られるならば、われわれはさらに続けて、社会的営造物をこれらの含意が参加者によって体系的に処理されている場所として見ることができるのである。

 あらゆる組織は一定の水準で存在様態(Being)の規制――所定の性格を持ち所定の世界に住むことの義務づけ――をも含んでいるのである。かくして本稿における私の目的は、特別な種類の怠業すなわち規定された活動の不履行ではなく、規定された存在様態の不履行の検討ということになる。

 この意味でニートアイデンティティの諸問題を必然的に含むのだろう。あるいは、finalventさんがおっしゃっていた、

意志は私の絶対的な企投を要請する、しかし、人はそこで欺瞞に陥るだろう。というか、人がある社会的な位置で存在していることと、その企投とは同じだ。だとすれば、人はただ運命を生きるだけだ。

という言葉もますます明瞭に了解されてくる。生活世界を、生きるしかない。

#LPPはこの過程を組織内のアクセス運動として描いているから面白い。でも、ゴフマンも<精神医療システム>内の運動として描いているような?