とある教育者のぼやき

 思想的な関心が強いと同時に、「底辺校」から進学校まで教師として歩きわたっているあるお方のミニレクチャー。そのメモ。


 彼はとにかく、現在の教育が

 対象世界
 ↑
 自己

モデルに基づいて成り立っていることを嘆いた。これはどういうことか。それは、「私たちは自分一人で興味を持ちひとりで何かを学ぶ」と見なすモデルのことである。「勉強はおまえのためにやるものだろ」「一人でもけじめをつけて勉強しなさい」「自分で関心持って大学受験勉強をしろよ」というような言説に象徴されるような、(学ぶべき)対象世界に対して、個人で「主体的に」取り組ませるようなモデル。これを彼は完全否定する。非難する。


 彼が主張するのは協働モデルだ。彼は

   対象世界
     ↑
自己→他者

モデル、すなわち他者を介した学びの重要性を叫ぶ。現在の教育システムでは自己→他者ラインが切断されている。私語をしゃべるな。自分で勉強をやれ。しかし、学びは本当に「自己→対象世界」で生じてくるのか?と彼はいう。彼は、「あるヤツに触発されながら語り(学びへの興味)が生成されてくる」という。なるほど、たしかに。彼は三角形の関係、とりあえず「主体性」を求めないモデル、協働モデル、共同主観的なモデルの必要性を訴える。


 それは「連歌」の世界に近いという。

「他者の頭を活かす/異化す」「自分の発想を異化する」「異なり=事成り」

である。一人で対象世界に向かうと、とにかく駆動力がない。これは心的外傷(PTSD)からの回復の際のグループワークの重要性を指摘したジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』の主張にも通ずるものがあるだろう。「内発的動機←→外発的動機」の二分法は見直されるべき時である。


 まず共同主観性があり、「主体性」はあとづけとしてあらわれてくるものである。彼はこう述べる。「主体性」「個性」「自律」を求める教育風潮が個人を追いつめているという指摘、これはたしかに傾聴に値すると思った。ただし、それは暴力的に共同性を強要するものであってはならないだろう。あくまで「聴く」関係をさりげなくコーディネートする、ひきこもりを無理矢理「共同主観性」へ導き入れない、そんなモデルであるべきだ。現場を経験していない自分としては、これ以上、今現在では、述べることはできないけれども‥