相対主義に関するよくある質問


相対主義者は、懐疑主義者のように真理を知る可能性を否定するのではなく、立場の違いによって多くの真理が存在するという方針を取る。
相対主義の分類の基準には、少なくとも、真善美のどれに関わっているか、方法論的か否か、どれだけ過激であるか、の3種類がある。
■真偽に関わる相対主義は認識的相対主義と呼ばれており、クーンによる異なるパラダイムの通約不可能性やサピア・ウォーフ仮説 (言語論的相対主義) などの主要な認識的相対主義はディヴィドソンによって批判された概念的相対主義に分類される。
相対主義色の強いテクストの多くは、方法論的か否かが曖昧だったり、どれだけ過激な立場を表明しているかが曖昧だったりする。

  
 科学は客観的真実を明らかにしない。だが間主観的真実を明らかにはできるかもしれない。「すべての真実を明らかにする」「脳科学が心のすべてを明らかにする」このような馬鹿げた狂気的思考さえ持たなければ良いのでは。一心理学徒として思うのだが、仮説→実験→統計的有意に達したときの快感が強すぎて、眩んでしまうのでは。謙虚さを見失って。あくまで5%有意水準での話なのに。要は自分が行っていることの個別性/反証可能性に謙虚たれ、ってことか。澤口俊之さんは一知見から社会的なことにつなげる際の手際がうさんくさすぎ。だが、「血液型って性格決めるよね」的言説を嬉しそうに発する友人を非難する気には全くならない。それは彼女にとっての真実だから。
 だが難しいのは会社の人事部が血液型で配属を決めるような例。「それは不当な差別だ」と心理学徒は反論するだろう。個人の物語論的真実と社会的に流布する言説の社会構築性との問題をどう扱うかにケリをつけたい。なんとかして。


 第三の規則を、実験や観察から得られたデータが本当に科学者たちが導いた結論を保証しているかどうか自分自身で独立に判断するだけの専門知識を持たない科学社会学者が用いる方法論的原理として読んでみよう(124)。このような状況では、社会学者が「研究対象である科学者社会がXという結論に達したのは、Xが実際にこの世界のあり方だからだ」と言うのに躊躇することは理解できる。たとえ本当にXが世界のあり方で、それこそが科学者たちがXを信じた理由だったとしても、社会学者にとっては、研究対象である科学者社会がそれを信じるようになったという事実以外にXが実際に世界のあり方だと信ずべき独立の根拠がないからである。もちろん、この行き詰まりから導かれる分別ある結論は、科学社会学者は、自分では事実について評価を下せない科学の論争を、そのような独立の判断をあおげる信頼できる別の科学者社会 (たとえば後世の科学者社会) がない限り、研究すべきではないということである。むろん、ラトゥールはこの結論を好ましく思わないだろう(125)。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 131-132頁)


 実はここにこそ「科学が作られているとき」を研究する社会学者の根本的な問題があるのだ。科学者たちの同盟関係や力関係を研究するのは大切なことかもしないが、それだけでは十分ではない。社会学者の目には単なる力関係のゲームのように映るものが、実際には完壁に合理的な考察に裏付けられているということもあるのだ。しかし、それは科学の理論と実験の詳しい理解があってはじめてわかることなのである。

 むろん、社会学者が自分自身で必要な知識を身につけたり、そういう知識を持っている科学者と共同で研究を進めたりすることは一向に構わない。だが、ラトゥールは彼の方法の規則の中のどこでも、科学社会学者がそういう方向に進むように勧めてはいない。実際、アインシュタイン相対性理論に関して、ラトゥール自身はそうはしなかったことを示すことができる(126)。このような研究に必須の知識を身につけるのは、たとえわずかに異なった分野の科学者にとっても、容易なことではない。それを思えば、こうなるのも理解できないではない。しかし、かめないほど口に入れても何一つ身にはならないのだ。

(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 132-133頁)


 社会学者(科学哲学論者?)は、科学者が研究している当の対象へのロクなアプローチも自分では出来ないのにどうするのか、といった問題提起だろうか。半分は同意、半分は否定。
 科学がここまで強力なのはそれが間主観的に広く強く受け入れられたシステムだから。地道にそのシステム内部での「システム内真理」を追求する方々には本当に敬意を払いたいと思う。哲学者の適当な引用が癪に触るのも非常に理解できる。「数量化されたモデルはあくまでモデルでしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ」としても、その「あくまでモデル」が強烈に社会的現実を形づくり人々の物語論的世界観まで浸食し始めている強烈な日常風景も現に存在している。
 が、一方でこうも思う。科学が人々の価値観まで左右するということは、科学システム内部だけではなく、そのシステム(およびそれが提出した知見)を社会的コンテクストにおいて検討する必要がある、と。他のシステムから相対化する、ルーマンのいう棄却?的な作業も必要になろう。科学システム内部の知見は常に社会の文脈で消費されるのだから、科学システム自体の相対化も必ずや要請されることになる。
 互いにリスペクトと謙虚さを持った「役割分担(分業?)」という像しか描けないのではあるまいか。ここで次の問にいきつく。