『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)再読

語るのが馬鹿らしいほど人文/社会科学にとって著名かつ不可欠なこの本だが、白石さやゼミのために再読。

  • 出版の普及、とりわけ新聞が(出版業界の企みにより)流布したことによって、ナショナルな感覚(想像の共同体)が生じた
    • 新聞は1.非対称性、2.多元性を持つ
  • 想像の共同体はざまざまな「巡礼」により生じた
  • メシア的時間→空虚・均質な時間への変化、これもナショナリズムを生むために不可欠だった(この「時間」の概念も、ある種の「装置」といえようか)
    • メシア的な時間
      • 予兆→成就、いつ成就がおこるかはわからない感覚
    • 均質な時間
      • スケールによって等分され、均質に過去→現在→未来へと流れてゆく、さまざまな出来事が並列的に流れていっているという感覚
  • 「公定ナショナリズム
    • 自然発生的な「想像」によるナショナルな感覚ではなく、権力主体による上からの国民イデオロギーの注入(国民のぴちぴちに引き締まった皮膚を帝国の輪郭に無理矢理ひろげる/かぶせる(=ロシア化)
  • ひとたびナショナリズム(想像の共同体)が生じると、1.行政装置、2.メディアの役割などもあり、出版言語が果たす役割は薄れてゆく。メディアがナショナリズムをデザインする。
    • つまり必ずしも言語共同体である必要はなくなってゆく
    • スイスの事例はどうか?アンダーソンの説明は少々キツくないか?
  • nation=stateの枠内にeconomyが入りきらなくなったとき、人々の「想像の共同体」の輪郭線は変化するのか?するとしたらどう変化する?
  • state→個々人だけではなく、今度はgroupを作る力を持っている(「統計」という装置、異質なモノも「その他」という一分類項目に還元される)
    • 見出しの名言(etc.の誕生で、世界について語ることができるようになった)
  • grid(格子)のあまりにも強力な力
    • gridとはシステムといえるのではないか?あえて構造という語を用いるとどうなるか?
  • 政権を奪取した新政権は、旧政権の「配線を相続し、再びスイッチをいれる
    • たしかに新政権は「統計・メディア・博物館・地図・教育etc...」といった権力装置を相続し、リフォームし、再稼働させる。だがそのような権力装置は絶えず微調整/微修正されているのではないか?微修正する主体(subject)は誰か?誰かと問えるのか?問えないとしたらsubjectivityの問題にどう折りをつけるのか?
    • 権力装置は、権力主体によって生み出された面もあれば、自動的に(人々によって、むしろ歓迎されながら)再生産されるという面もある。この双方向性をどう捉えるか。フーコー以後では、この問題がどう扱われているか?
  • 権力者も一般市民も常にsubject(主体/従属体)となる。そこから建設的議論を発するには?

言葉は権力の磁場の内部にある。で、そこから?がひたすらの問い。うむむ。