ロラン・バルト『テクストの快楽』

特に邦訳版pp.19-33の「快楽(pleasure)/悦楽(bliss)」の区別を中心に。

  • 「身体で最もエロティックな場所とは、衣服が口を開くところではないだろうか」
  • (テクストの)「快楽」とは
    • 馴染みのある文脈=コンテクストにおいて、軽やかに舞うこと
    • 自分が普段コード化されているそのコードの中において、自由に振る舞うこと
    • 同じ文化社会的バックグラウンドの中でcomfortに生きること。だからこそ読み飛ばしても意味を理解することができる。
    • 文脈を共有した人との政治的権力の支配下に入る
  • (テクストの)「悦楽」とは
    • 「読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の凝着を揺るがすもの」
    • つまり自分の馴染みのあるコンテクストから断絶されること。共有された文脈から、ぼこっと抜け落ちてしまうこと。文化的共有されていない私だけの出来事。
    • たとえば名簿の中に好きな人がいたとき、自分だけドキドキ‥。あるいは映画『天井桟敷の人々』の中で、演劇のコンテクストから突然抜け落ちてしまった彼女そのもの。
    • それは時には天国であり地獄でもある。トラウマも「悦楽」である。トラウマから回復するには、「快楽」の段階に戻るしかない。語りえぬものについては、語りえぬまま語らねばならない(『心的外傷と回復』、高橋哲哉の一連の議論)。


バルトも母親が死にこの(悦楽から脱出し快楽へと向かう)あがきを行ったのではないか。そしてあがききれず死に至ったのではないか。(『明るい部屋』)

明るい部屋―写真についての覚書

ロラン・バルト , 花輪 光

コード化された<わたし>という主体=従属体subject(ソシュールフーコーetc...)。そのコード化された<わたし>からも抜け落ちてしまうこと。それが「本当のわたし」?否、subjectivityをどこに折り合いをつけて問えば良いのだろうか。


追記)『バルト:テクストの快楽』(鈴木、講談社1999)より追加。

 バルトはテクストに身体性を与えようとした。それは彼のまなざしや、手や、喉を通る声と切り離すことができない。何よりも書くことが、そして読むことが、バルトにとっては快楽だったのだ。だから彼は批評家や研究者のように系統立った読書に打ち込んだりはしないし、大部の書物を競いたって書いたりはしない。気ままな散策者のような好きなものを読む一読者であることを大切にしたのである。

 それゆえ、テクストの快楽は性的な快楽と結ばれる。バルトは快楽と悦楽という分類をする。快楽は知ることが出来るが、悦楽は知ることが出来ない。悦楽は快楽の彼岸である。バタイユが語る性愛の頂点における死の体験に似ているが、快楽の主体はこの自分から切り離された悦楽を「欠如」(ラカン)として認識することによって、その欠如にむけての漂流を開始するのである。

快楽は、悦楽を希求し、それに向けて漂流をはじめる。決して辿り着きはしない。辿り着いた悦楽の地平では、もはや語りも評論的な思考も不可能である。すなわち「辿り着いた」という感覚を得る地平は常に逃げてゆく。あるいはそこは死の地平である。だがエロスの(存在の必然性を与える、永遠につながる)場所でもある。