デリダの『グラマトロジーについて』におけるレヴィ=ストロース批判の恣意性

 デリダは、レヴィ=ストロースの記述を、無垢で善良な小規模の共同体、そのあらゆる成員が直接に透明な音声言語で語りかけあっている平和で非暴力的なミクロ社会に、策略と背信によって外部から(すなわち西洋から)、文字が搾取の道具として暴力的にもたらされたということを語る物語として読んでいる。

これはひとつは、デリダ

 自分の哲学のために他者の歴史を忘却

してしまったためである。また、

 デリダが暴力を隠すものだと批判している、閉じられた無垢で善良な共同体のイメージは、19世紀の西欧が、自分たちを暴力的で流動的だが「開かれた社会」だと規定するために、それとは正反対のイメージを過去や未開や田舎の小規模な共同体に投影することから創り出した観念である。ところが、デリダは、自分が批判しようとするその観念にこだわるあまりに、あらゆる小規模な共同体についての記述のなかに、無垢で善良な共同体のイメージを読み取ってしまう。

つまり

 この無垢で善良な共同体というイメージを必要としているのは、それが社会内部の暴力を隠しているということを他者のテクストのなかで暴露したいデリダのほうなのである。

すなわち、

 デリダの根源的と称する批判とは、自分たちの社会や時代が創り出した「閉じられた共同体」のイメージをいたるところにみいだしながら、それを内部の根源的な暴力を隠していると告発する一方で、当然出てくるそのイメージにあてはまらない記述は、驚くべき根源的な暴力の露呈として読んでみせるものなのである。

小田亮レヴィ=ストロース入門』より。たまたま手にとったら意外と面白い本だった。限りなく構造主義の可能性を追求する彼は、たしかにリスペクトだ。