落書き程度の村上春樹『アフターダーク』の感想

 イブそれなりに楽しかったぞ。つーか風邪だし二日酔いだし頭いてー。去年の今頃は北海道にいたと思うと笑える。目が覚めたので、手元にあった、前買って放置してあった村上春樹アフターダーク』読了。2時間かからず読めた。なんて読みやすい本なんだ。最後のエリとマリの肉体のふれあいのシーンはさすがだ、美しい、カタルシス。読後感の爽やかさは、吉本ばななみたい。SWITCHとかに連載されてそうな。


 「ストーリーが中途半端・先が知りたい」という批判もあるようだが、個人的にはこれ以上の書き方はなかったのではないかと思う。何のために渋谷(この物語は明らかに渋谷だよな)の街角を設定したのか。そして何のために春樹自身がカメラの視点となったのか。スクランブル交差点を渡る人々は、偶然交差し、またそれぞれの四方へと歩をすすめてゆくのだ。


 物理的に日が沈み、次の日の朝日が昇るまでの物語、「アフターダーク」。日常にどこでもある裂け目から落ちてしまった人が、偶然による人とのつながりによって、あるいは肉体と肉体を通じた接触によって、闇からふと抜け出る可能性のきっかけみたいなものを描いた物語、「アフターダーク」。二重の「アフターダーク」な物語。それにしても最近の作家は、人とのつながりの「偶然性」にすごく力点を置いているよな。


 語りの視点が自由自在に動いているのも面白い。でも、そもそも描写するとは、テレビのブラウン管の向こう側に対象を追いやるということだろう。あるいは考えるとは、対象をテレビのスクリーンを隔てたあっちに移動させてしまうということ。テレビのこっち側で他者(対象)と通じるには、ベッドの中で肌を寄せ合うしかない。


 ひとつ、春樹自身が対象から離脱し、カメラの視点になっている。自由自在に視点が動く。これは春樹が小説家だから当然だろう。書き手の、書き手であるかぎり逃れられない、痛みを感じる。(もちろん「純粋な観念としてはテレビの向こう側にフォーカスできる」と春樹は言うのだが)。ふたつ、マリ自身がエリ(姉)に対してカメラの視点となっている。家族の歴史的な過去による、マリとエリの関係によって。あるいは、エリ自身の(社会)心理的な理由によって、エリは裂け目のあっち側にいってしまったのだから。そして最後のシーンで、肉体によってつながる「かもしれない」という「兆し」が示され、また一日が始まってゆく。その「兆し」すらも、ピクっとした筋肉の動きという、肉体の胎動として描かれている。そこに春樹のカメラがあらためてフォーカスする。ブラウン管の向こう側へ突き抜けたいという欲望を持ちつつも、かろうじてそれをこらえながら。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とヴィトゲンシュタインは語ったが、小説の定石は――「語りえぬものについては身体に託さねばならない」。


 個人的に惹かれたのは、これがたった1日――日が沈み、夜の街があり、そこにまた日が射す――の物語だということ。あくまで1日。すぐまた闇が来るかも知れない。でも、太陽は確実に昇り、翌日の街角を照らす。都会の街角で、闇=昨日の記憶と太陽=新しい一日の予感がせめぎ合う。

「窓に降ろされたシェードの隙間から、鮮やかな光の筋が部屋に入り込んでくる。古い時間が効力を失い、背後に過ぎ去ろうとしている。‥姿を見せたばかりの新しい太陽の光の中で、言葉の意味合いが急速に移行し、更新されようとしている。たとえその新しい意味合いのおおかたが、当日の夕暮れまでしか続かないかりそめのものだとしても、私たちはそれらとともに時を送り、歩みを進めていくことになる。」
「ふんだんな朝の光が世界を無償で洗っている」
「真新しい一日が始まろうとしている。それはかわりばえのしない一日になるかも知れないし、いろんな意味で記憶に残るめざましい一日になるかもしれない。しかしどちらにせよ、誰にとっても、今のところまだ何も書き込まれていない一枚の白紙だ」


 裂け目は語りかけてくる。「逃げ切れない。どこまで逃げても逃げ切れない」と。たしかに逃げ切れるわけはないのだが、日は射しこんでくる。円環として、流転しながら、たった一日を紡ぎながら、時は先へと続いてゆく。そして12月25日がはじまる。朝飯を食おうにも、気持ちが悪い。