きみはソーカル事件を知っているか?


 『知的ぺてん』の出版後、この本を貶したり、見下したりした論評は数多く現れたけれども、事実誤認を指摘したり、著者の分析に合理的な反論を加えたりした者は一人もいない。では。攻撃された本人やその信奉者たちは、どんな反撃をおこなっているのか。列挙してみよう。 (1) やり玉にあげられた思想家たちは科学概念をメタファーで使っているのだから、それを額面どおり受け取って批判するのは見当違いだ。 (2) 言説の枝葉末節を批判しても、思想の批判にはならない。 (3) 哲学に対して「科学的に正しい」ことを求めるのは、思想の冒険を封殺する検閲行為だ。 (4) フランス人思想家ばかりを標的にする『知的ぺてん』は、米国の一部の知識人の「保護主義」を反映するアンチ・フランスの書だ。ほぼ、以上に尽きる (なお、正々堂々と立ち向かうかわりに「論じるに足らぬ」といわんばかりの言辞を吐き、無視を決め込もうとするJ・デリダその他のやり方は反撃の名に値しまい)。

 しかしいったい、このような反撃に説得力があるだろうか。(1) ソーカル&ブリックモンは「メタファーへの権利」を哲学者から奪おうとしてはいない。彼らの批判対象は、論旨を照らし出すどころか読者を煙に巻くこと以外に何の意味もない「メタファー」に限定されている。 (2) ソーカル&ブリックモンは、それぞれの思想家の思想全体に判断を下すことはしないと明言したうえで、数物理学概念の濫用だけを咎めている。 (3) 「科学的に正しい」という要請を嫌うなら、最新科学用語による言説の権威づけなどしなければよいのだし、そもそも権威主義的スタイルは思想上の大胆さと何の関係もない。 (4) このナショナリスティックな反論はクリステヴァらが憶面もなくおこなっているものだが、いたずらに論点を逸らそうとするものでしかない。そもそもソーカル&ブリックモンが標的にしたのは、フランス現代思想を担う一部の思想家にすぎない。サルトルにも、リクールにも、レヴィナスにも、さらにデリダにも、そして近年フランス思想を刷新しつつある若い世代の一群の知識人たちにも、彼らは何らクレームをつけてない。


 要は「ドゥルーズは所詮『知の欺瞞』だから」とかいってるヤツが最大の愚ということか。(1)に関しては思想は常に最先端の科学的メタファーを援用しながら語られてきたという側面をどう見るか。メタファーだということに常に謙虚になりながら、近代科学モデルを批判的検討しながら、規範/理念/思想を語る他ないのではないか。最近「心」は脳のアナロジーで語られることが多いが。
 (2)に関しては、そうであるが故にこの本(知の欺瞞)からポストモダンを批判することはできないということになる。戒めるべきはレッテルでの語りであり、それは「ポストモダン(実に意味のないレッテルだ)」陣営、ソーカル陣営両者にいえることだろう。言えることは常にひとつひとつのことについてである。
 (3)に関しては、(1)の側面と絡んでくるなあ。
 (4)については思想界の動向に詳しくないので保留。