id:sujaku、id:m-keatonさんへの応答。

昨日のhttp://d.hatena.ne.jp/m-keaton/comment?date=20040618#cでの議論が長くなってしまったのでレスをこちらに書いてみました。


sujakuさんの「切れ味のいい」という表現、おそらくここらへんに評論/文筆(学問)の有用性があるのではないでしょうか。すなわち、個人個人の生きている物語を(他者が)決して理解することはできない。だがしかし、個人の物語は永遠不変な実体では決して無く、絶えず他者の言説を吸収/消化/変形しながら変わりゆくものである。他者が提示した物語が自分にとって(参照枠として)意味を持つと感じられる場合、個人は他者の物語の一部を吸収し自らの物語を修正/変形する。だからこそ<切れ味のいい>という表現の地平にこそ、つまり「切れ味のいい」物語を他者に提示すること、ここにこそ文筆業の可能性があるのではないでしょうか。


また言語論的転回以後に育ってきた人間としては、言葉が現実を創造するのだから「より歪みの少ない参照枠」を絶えず提示し続けることに意味があるのではないかと思います。個人は自分が取り囲まれた「社会」を吸収しながら物語を紡いでゆくので、「社会」における「歪みのある」言説を相対化し続けるという作業が求められる。おそらく「公正」という価値観は現在最も広く支持されているのではないかと思うので。


つまり「切れ味のいい=魅力的な意味に満ちていて思わず取り込みたくなるような物語」を提示することがひとつ、「より公正を志向しそれをクリエイトするような言説」を提示し社会変革を目指すことが二つ目、ではないでしょうか。


ここで「語りえぬものについては沈黙せねばならないのか」のテーゼに戻ると、その「語りえぬ」個人が思わず取り込みたくなるような魅力的な物語を提示すること(哲学/評論/小説/エッセイ/科学的言説/臨床心理学/精神分析etc...)、「語りえぬ」個人が抑圧されないような社会的言説=社会的現実を創造すること(エピステモロジー社会学文化人類学/その他学問的営み/小説エッセイetc...)、この二つの意味において、私たちが「語る=対話を試みる」ことにも意義があると考えます。


ただし、決して他者の真理/心理は解き明かすことはできず、あくまで「参照枠」を提示しているだけだということは心に強くとどめ、「理解はできない」ということを彫り込まれた傷のように自覚しながらの「可能性に賭けた」対話でなければならないとは思います。