Blogに載せる予定のものを、まずはてなに載せてみよう

さて今回の議論はどうかなー。一般ウケ悪そうだな。はてななら許されそう。せっかく書き上げたから、試しにup。http://genxx.com/blog/


とりあえず究極の恋愛論part.4


 とりあえず究極の恋愛論part.1part.2part.3と続いてきていよいよこここまで来ました。今日は「愛」のいささか深い次元についてのおはなし。けっこう本質的なところなのだけれども、哲学的議論嫌いな方にはキツい記事かもしれません。無理ならパスしてください。次回フィナーレの予定。――「神様が僕を見るように、僕が彼女を見てあげることができるとき、僕は彼女を愛しているんだ」


4.「愛」の深い次元について――ラカン・宗教・芸術・わたし


 ラカンは、「愛の中には偶然が必然に変わる瞬間が含まれている」と述べた。以下二段落の内容は基本的に新宮著『ラカンの精神分析』における議論を参考にする。人間は、自分が存在することには必然的な理由がある、自分のアイデンティティにはたしかな根拠がある、自分はたしかに存在している、そう考えなければ生きてゆけない。この感覚の喪失が「エディプス・コンプレックス」の本質に他ならないと彼はいう。私たちは自分一人ではこれらの感覚を抱くことが出来ない。ひとつには「自己言及の不完全性」があるだろう。つまりこれは、「私は私の必然的な存在理由を語ることが出来ない」ということである。なぜか。たとえば私は「人生とは何か」を絶対的に語ることはできない。なぜなら私は人生の外に出ることはできず、外に出ないかぎり、人生の全体像を見渡すことができないからだ(ヴィトゲンシュタインの例の議論)。同様に、私は私の外側に出ることができない。したがって、私自身の必然的な存在理由を語ることは、私には不可能なのだ。


 それでも人間は「わたしは何故存在するのか」ということを問わざるをえない。ふと空虚感に襲われたとき。ふと目的を見失ったとき。あなたは知らず知らずのうちにこの問いに引き込まれているはずだ。ではどうすれば良いのか。「他者」に自分を同一化すればよい。このことは自分のアイデンティティは「他者の他者」という形で成立する、という例の議論からも理解できるだろう。


 それゆえに、「人間の欲望は、必然性への希求と一体になり、愛という名の超合金を生んだ」のである。つまり、<わたし>の必然性を求める営みは、すべて愛に関する営みだ、ということができるだろう。この意味では、「わたしはこの世界の王である」といった類の妄想も、わたしの深層を抉り出そうとする芸術の試みも、すべて「愛に関する営み」になる。


 キリストは私の存在の必然性を与える。つまり「神は我に愛を与え給う」。宗教は愛の営みである。「愛国心」とはすなわち、わたしは国のために存在する、国がわたしの存在に根拠を与えていると考え行動することである。芸術は、<わたし>が触れることのできない存在の必然性を描き出そうと試みる限り、すべて「愛」の営みとなるだろう。


 亀井勝一郎は「愛の可能性とは、愛の永遠性の可能性のことです。永遠に愛することを欲しない愛、いわば時間的に限定を設けた愛など存在するでしょうか。(中略)みな永遠です。愛とはその誓いなのですから」と述べた(以前の記事参照)。彼は結局、恋人は「永遠の愛=永遠のわたしの必然性」を保証してくれない、だから私は仏にこそ愛を求める、仏はわたしに永遠の愛=永遠の凝視を注いでくれるのだから、と述べた。(興味ある方のみ以下の引用部参照)


大慈大悲とは何か。それは世の所謂あわれみでもない、同情でもなく、赦す赦さぬの問題でもない。人間的愛の不連続性に対する、それは仏性の連続性であり、一人間を永遠に凝視していてくれる明晰の眼なのである。人間社会に在って、誰が永続的に瞬時も休まず自己を見つめていてくれるか。(中略)愛とは永遠凝視力なのです。しかし人間にあっては、親子恋人ですら、やがては途切れる。私はこの寂寥のうちに仏性の凝視力を仰ぐのです。」(『愛の無情について』)


 愛を求めることは、つまり<わたし>のアイデンティティを求めることは、あるいは<わたし>の必然的な存在理由を求めることは、このように人間の本質的な欲望であるように思われる。その欲望が宗教・芸術・恋愛etc...さまざまなものに形を与えてきたのではないか。だが本質的な問題は、「わたしはわたしの存在の必然性を語ることができない」、つまり「わたしは愛を語ることができない」ことにある。自分の存在の必然的な根拠を与えてくれるもの、それをわたしは完全に言葉にすることができない。なぜなら先述した「自己言及の不完全性」が立ちはだかるからだ。


 わたしはわたしの存在理由を「他者が与えてくれる<わたし>のアイデンティティ(part.1のb.)」に求めたり、芸術に求めたり、あるいは宗教(神/仏)に求めたりする。つまりそれらに愛を求める。だがしかし、それらを決して自分の言葉で語ることはできないのだ。言葉にできないとはすなわち、私がそれらを支配できないということでもある。いやむしろ、語りえないからこそ、それらはわたしに愛を与えてくれるのだ。「愛の神秘」「神の超越性」「芸術の奥深さ」‥世界/わたしの本質を表現するものは、どれも「語りえない(神秘的)」という特徴を持っている。


 わたしたちは自分の言葉で語ることができるものに「わたしの必然的な存在理由(愛)」を求めることはない。あるいは求めることはできない。自分の言葉で語ったとたんにするりとわたしから逃げ出してしまうもの、それが存在の必然性であり愛に他ならない。したがって、「語りえない」ことこそが愛の本質なのである。しかもこうしてわたしが愛を語ったこの瞬間に、もはや愛はわたしから滑り落ちている。わたしは追いかけることしかできない。さて、冒頭にも掲げたが、『ラカン精神分析』より素敵な言葉を引用してむすびとしたい。次回はもっとわかりやすく、恋愛論を締めてみます。


「神様が僕を見るように、僕が彼女を見てあげることができるとき、僕は彼女を愛しているんだ」