浜本満HP(http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/fragmentary/)より印象部分を抜粋メモ。検討はおいおいじっくりと。

  • もし本当に使い方がばらばらで、「文化」という言葉によって指されているものがその都度違っているのだとすれば、大事なのはもはや言葉を正しく定義したりすることではなく、その異なる使い方をきちんと区別して、それぞれの場合にその言葉によって、どのような現象のどのような側面が問題になっているのかを明確にすることだ。こんな状況で、「私は文化を研究します」なんて言うやつには、こう問いかけるしかない。で、いったい何を研究すれば、あんたの言うところの「文化」を研究していることになるのか、と。
  • 「文化」を記述するだとか、「文化」の仕組みを解明するだとか言っても、具体的に何を記述しようとしているのか、何を解明しようとしているのか、それだけじゃわからないってんだから、自分が本当になにがやりたいのかわかって欲しいんだったら、もうこの言葉は使うなと。めんどくさい相手に、適当におざなりな応答をする場合には便利だけどな。
  • 要するに、なんらかの共同性、集団的枠組みを想定し、それを特徴付けるような慣習的行為が、ここでは文化という言葉で呼ばれている。
  • 自己規定や他者規定のプロセスと密接にかかわっている。「文化」は(集合的)アイデンティティのよりどころのような役割をになわされている。実際には、単なる事実問題として、どんな人たちがどんな頻度でどんな風に慣習的に振舞っているかを記述しているつもりでも、それが共同性の枠組みでなされている限り、この自己規定と決めつけが交錯する場にいやおうなく引きずりこまれてしまうのは避けられない。
  • 「文化」がハイブリッドだったりするわけではない。文化という言葉を使っての、自己規定、他者規定のあり方が複数的・不確定的だというだけだ。
  • これらの文化人類学者が「文化」という言葉によって照明を当てようとしていたのは、それぞれの社会の人々が、世界についての情報を処理し、周囲に働きかけるさいに、そこに加えられているこの制御のメカニズムの問題であった。
  • 社会生活がたいていの場合、そこそこ予測可能、計画可能、理解可能なものとして営めているってことは、人間の行動や経験がそれなりに制御され秩序づけられているってことでもある。60年代の文化人類学は、社会の秩序とその秩序を可能にする、社会を構成する個々人の経験と行動に働いている制御の仕組みを、「文化」という概念を中心に据えて、従来の社会理論とはやや異なった新たな角度から再主題化しようとしていたのだっ! その問いは、「人間の行動と経験は文化によってどんな風に制御されてるんだろう?」という形で要約されるのが普通だ。
  • 現実には経験と行動の制御が、複雑にパターン化した相互行為の(コミュニケーションの)プロセスの中で行われているかもしれないとしても、モノまがいのものを連想させかねないこの「文化」という用語は、それをプロセスとして思い描くことの妨げになってしまう。その証拠に、当時この方向に考えを進めることができたのはベイトソンくらいのものだった。
  • みんなも「文化=人間の行動と経験を制御するもの」と言われて、なにか一種の制御装置のようなものを思い描かなかっただろうか?その最悪の帰結は、それを結局は個々人が各自内蔵すべき何か、身に付けているなにかだと考えてしまうことだ。
  • 人間の行動や経験が「文化的に」制御されているということ、このことの意味をもう一度問い直してみる必要がある。なにか制御装置のようなモノを想像するのではなく、あくまでも個々人を超えた社会的、コミュニケーション的なプロセスそのものとしてそれを可視化すること、個々人をスタンド・アローンのマシンのようなものとして考える代わりに、社会というネットワーク空間に常時接続し、それによって支えられ、コミュニケーションを通じて常に互いにチューニングしあい常時自己を更新しつづけるようなそんな存在として想像すること、このネットワーク空間を構成しているコミュニケーションの性格とパターン(分裂生成とか模倣とかのパターン生成のプロセスをともなう)について明らかにすること、

  • ヴァーチャルって言葉を使うことにしたんだけど、ちょっと問題もある。この言葉を使う人のかなりの人(ほとんど?)は、このヴァーチャルって言葉を「現実」ってものを考え直す方向で使う代わりに、既存の「現実」ってものにどっぷり浸かったまま、現実/非現実の二項対立の中で使っちゃってるってことだ。
  • 単に番地表=プログラムが当てにして良いアドレス空間=メモリ空間と、物理メモリとの、かつてあった一対一の関係が切れたってだけのことだ。番地表とそのリファラントの関係が変化しちゃったんだ。このリファラントとの関係の変化、これが仮想化、ヴァーチャル化ってことの意味だ。
  • C・S・パースが行なったインデクスとシンボルの区別について知っておくと便利だ。パースは記号とそれが指示する対象物との関係の違いで、記号をイコンとインデクスとシンボルに分類した。人間だけでなく、他の動物もさまざまな出来事を、なにかのイコンやインデクスとして解釈しているし、動物同士のコミュニケーションは、威嚇の叫びや警戒音から、フェロモンやらによる嗅覚媒体によるコミュニケーションにいたるまで、もっぱらこうしたインデクスをもちいたものになっている。一方、何かをシンボルとして解釈するのは人間だけだと言われている。人間だって、ずっとインデクス的なコミュニケーションの世界にどっぷりつかっていて、進化の過程でシンボルを獲得したわけで、まさか全くの新発明か神様からの突発的な贈り物みたいな形で、それまで使っていたコミュニケーション様式とは何の関係もないものを手にいれたなんて訳でもあるまい。
  • 重要なのは言語の学習でも初期においては、この同じレベルの学習が起こっている。つまり同じ時間的・空間的コンテキストのなかでの連合にもとづく、インデクスの学習が起こっているわけだ。シンボルの学習においても、初期においてはインデクス学習のプロセスがかならず入ってきている。しかし、シンボルとインデクスの違いはこの先にある。人間の子供はシンボルとしての言語記号をぐいぐい学んでいく。
  • でもシンボルとしてそれを使うということは、せっかく学習したコンテキスト内での連合を一度ご破算にしてしまわなけりゃならない。指し示すものとの時間的・空間的なコンテキスト内での結びつきから、記号を解放してやらなければならない。その指し示すものが存在しない全然別のコンテキストで使用可能にしなければならない。
  • 人間の場合、インデクス世界を作り上げる記号(論理アドレス)と指示対象=リファラント(物理アドレス)との学習された連合をいったんぶちきることを通して、対象とのコンテキスト内での共起に依拠しない記号によって描かれた世界の住民となることが可能となっているわけだ。つまりわれわれの用いている言語記号は、インデクス記号をヴァーチャル化したものなんだね。
  • 人間の言語におけるインデクスのヴァーチャル化はなにによって可能となったんだろう。これはもうこんな断章で議論するような話じゃないけれど、シンボル記号、つまりヴァーチャル化したインデクス記号が、相互に支えあうというか、参照し合うようなシステムの成立を介してなんじゃないだろうか。そう考えると、ソシュール風の構造言語学が主張していることとも符合しているみたいだ。
  • こういった世界が僕らの経験する「現実」なわけで、それはどうにもヴァーチャルなんだけど、にせものでもまがいものでもない紛れもない現実なんだな。
  • ま、ときには言霊(ことだま)とか言って、言語記号がまるでインデクスみたいに感じ取られちゃうようなこともあるにはあるが。
  • Bとの結びつきはもはやBreal の共起によっては支えられない。その結びつきを支える仕組みが必要。例えば記号「体系」の学習

  • ここまでのところ、集合的記憶ってのは、どう見てもあまり出来の良い比喩とは言えない。結局、過去についての物語が、どんな風に覚えさせられ、思い出されるかって話にすぎない。つまり過去についての「語り」を覚えているってことだ。問題は、物語がどんなふうに語られ、流通し、語り継がれ、想起されるかという問題だ。その点では、御伽噺や滑稽譚の語り継がれの研究と、理論的にはまったく同じ問題系に属している。それをことごとしく過去の「記憶」だの、「集合的記憶」だの言わないで欲しい。ここには物語りを記憶するってことを除けば、記憶の問題などどこにもない。
  • 繰り返すが、ある事物が特定の物語を思い出すきっかけになるってことと、その物語が言及している過去の出来事を思い出すきっかけになるってことは、全然別だ。えっ、なるほどその特定の事物に対して個々人がもつ経験の記憶と、その事物に結びついている物語とが重ねあわされる可能性を問題にしたいんだって?それはなかなかいい論点かもしれない。
  • 過去においてある出来事が起こった。その出来事の「痕跡」がいろいろな形で今日の習慣や、諸制度の中に残っている。それだけの話だ。痕跡は、それを過去の出来事と結びつけて解釈する者がいて初めて想起になる。ただし、それはその解釈者の記憶と想起であって、けっしてその痕跡が何かを覚えていたり、想起したりするってことじゃない。ハードディスクは痕跡を刻んでいるだけで、記憶などしていない。ちょうど割れた皿が、単に痕跡であって、何も記憶しているわけではないように。
  • ここまでのいぢわるな批判は、一つの公理から出発していたってことに、みんな気がついてたよな。つまり「記憶」っていう言葉の本来の意味、比喩的じゃないもともとの使い方は、個人の心的、精神的機能についての記述だって前提だ。アルバックスの「集合的記憶」は、ただ一点、決定的に重要な指摘をおこなっている。それはいわゆる個人の記憶ってのが、必ずしも個人が自分の経験から一人で作り上げたものなんかじゃないって指摘だ。つまり人の記憶ってのは、彼個人によってではなく、さまざまな他者とその語りによって構成され支えられているってことだ。
  • そして想起という行為も、けっして個人が自分のうちに持っている記憶の貯蔵品を、よっこらしょと取り出すだけの行為ではない。しばしば、他者とのコミュニケーションを通じて、彼がもっていたんだかいなかったんだか実は定かではない記憶が思い起こされたりするのだ。
  • アルバックスの議論は、集団が何かを記憶しているとかなんとかのすでに批判済みの話としてではなく、記憶というもの、つまり個人の記憶というものそのものが、集合的な過程によって出来上がっているんだって形でとらえたときに、初めてその意義があきらかになる。それは僕ら人間が、けっしてスタンド・アローンの精神マシンではなく、言説空間というネットワークに常時接続し、自己を成形し更新しつづける存在なのだということを、あらためて確認させてくれる。
  • 私が自分が実際に経験したこととして記憶していること、思い出すことが、すでに他者の語りに浸透されているのだから。
  • 語り継ぎのいわばデジタルな転送に比べて、振る舞い継ぎのもつアナログで不確定性により多く晒された転送過程のもつ問題点
  • 出来事の外部にいる者は、出来事をすでに終わったこととして物語に回収してしまうことなく、出来事の内部の人々が出来事について語るその行為そのものをひとつの「出来事」として受け止め、それをまさに現在のものとして生きる必要がある。(岡真理『記憶/物語』岩波書店
  • でも、ではこの難民化が単なる比喩だとしたら、それは何をたとえているのだろう。どういう具体的な実践の形態がもとめられているんだろう。まさか気のもちようだけ、なんてことはないだろうな。出来事を「分有」するってのは、たんなる共感の一種ってことになってしまう。それなら最初っからそう言えばよい。

  • 人間の行為を理解する際に、それをつねに頭の中での命題計算のような処理をともなうものとして理解するのがいかに無理があるかについては、イギリスの哲学者ギルバート・ライルって人がとてもわかりやすく論じてくれているので(日本語訳はちょっとわかりにくいかもしれないけど)、ぜひそちらを読んでほしい。「心の概念(The concept of mind)」って本だ。その後ブルデューの「実践感覚」(っていうか、私が読んだのは Outline of a theory of practice のほうだけど)を読んだとき、なんだライルのパクリじゃないかって思ったほど(今でもそう信じていたりするのだが...)。
  • ようするに「文化」を行動の諸「前提」だってすることは、人間の文化的な行動(あ、特定の社会空間の中で独特の仕方でチューンされた行動ってことね)を、特殊な意思決定の様式に、そして論理的な命題操作にたとえているってことだ。で、ほとんどの行動において、実際には誰もそんな命題操作をしている覚えがないので、例の決まり文句、便利なフレーズが登場することになる。「暗黙の」ってやつだ。「暗黙のうちに前提する」ってのが具体的にはどうすることで、無意識のうちに推論するってことがどんなことなのか、わかっている人がいたら教えてほしいものだ。単に、人々の行動が、「あたかも」、人々がしかじかの事柄を前提とし、それに基づいて意思決定しているかのように理解可能だというだけのことだろう。だから比喩なのだ。

  • ニーダムが何を言いたかったかって言うと、人類学者はさまざまな人々について、まるで「信じる」という心の状態が人間に普遍的な状態であるかのように、「彼らは...と信じる」「彼らは...を信じている」などと無頓着に記述してきた。けれど英語の「信じる」と完全に一致する言葉がない以上、それが指している心的状態を普遍的だと考える根拠はないんじゃないだろうかってことだ
  • 結論は、英語の「信じる」という言葉が指しているような心的状態は、明確に定義できないし、また当然けっして普遍的なものではない、だから他の社会の人々についてこの言葉を使って、「〜人は〜と信じている」などという記述をおこなうことには意味がない、っていうとんでもない結論だ。でもお分かりのように、ニーダムが「信念」に対しておこなった同じやり口は、他のあらゆる分析概念についても適用できるだろう。というわけで、あの有名な宣言「人類学の唯一の方法は比較である。そしてそれは不可能だ」が突きつけられる。
  • 、「信じること」がなんらかの心的状態を指しているのだと、僕らもつい思い込まされやすい。でも、ここが大事なポイントなんだけど、実は、僕らはこの「信じる」という言葉をそんな風にはぜんぜん<使っていない>ってことだ。
  • 命題についても同じことだろう。「〜と信じている」という発言は、「〜」という命題を真なる命題として、つまり前提として採用し、その論理上、実践上の帰結を引き受けるという決定の表明、一種の約束だ。
  • そう、「信じる」という発話は、行為遂行的発話(performative)という角度からとらえた方がよくわかる。「信じる」と述べることはそれ自体一つの行為を遂行することで、けっして、心的状態であれなんであれの単なる記述(Constative)なんかじゃない。「信じる」という言葉の問題は、その言葉がどんな風に使われているかを吟味することでかなりクリアになる。まちがっても、それが何を指しているか、つまりどのような心的状態を描写しているのかという風にもっていっちゃだめだ。
  • 他人を主語にした場合、つまり「彼は〜と信じている」と「彼は〜と知っている」との違いも同様だ。前者は「〜」という命題について、異論の存在が認知されており、後者はそれが排除されている。ただこの場合、しばしば異論の存在が「私」によって支えられていたりするのが、厄介な点だ。
  • 人を目的語にするにせよ、命題を目的語にするにせよ、「信じている」と述べることは、それらを自らの推論と行動の前提として採用すると宣言することだ。完全な根拠があるわけでもなく、異論の余地があることを認めたうえで、なおかつそれを前提として採用するという宣言である。半信半疑というのは、けっして、本当に信じきっていることと微妙に区別できるなんらかの心的状態を指しているわけではない。その帰結を引き受ける用意がまだできていない、その宣言ができかねているという未決の事態を指しているだけのことである。
  • でも、それ以上に問題になるのは、先週の「前提という比喩」の続きみたいな話になってしまうが、当人たちが別に「知っている」とか「信じている」とかいう形で、それを表明していないのに、観察者の方で「<あたかも>人々がしかじかの前提を採用し、それに基づいた推論の結果、しかじかの行為を選択しているかのようにみえる」という事実から、「人々はしかじかのことを信じている」と記述してしまう場合である。実際には、単なる環境的条件に対する身体的行動的レベルでの適応に過ぎないかもしれないものが、「信仰」の問題として提示されてしまう。これ危険。

  • ディーコンの議論で私が大事だと思った点は、シンボル的記号の学習が、記号とリファラントとの結びつきよりも、記号どうしの相互参照システムの学習にあるのだなどという、ある意味あたりまえの指摘自体じゃない。むしろ、そうした相互参照システムの学習に先立って、記号とリファラントとのインデクス的な結びつきの学習がまずなされねばならない、そしてついでその結びつきの学習が解消されねばならないという点の方が、重要なんだ。
  • きっとたいていの言語学者は、言語をすでにシステムとして完成した姿で問題にする、あるいはすでに習得済みの、大人が使用するその姿で問題にする。それは、記号の相互参照の、理念的には閉じた自律的なシステムとして事実見えている。でもそのときに、忘れてしまっていることがある。系統発生的に言えば、つまりヒトの進化という観点から見れば、ヒトは言語つまりシンボル的記号を手に入れる前に、まず他の哺乳類や霊長類たちと同じようにインデクス記号を用いたコミュニケーションに習熟していたはずだということだ。あきらかに、言語はこの既存のインデクス的コミュニケーション・システムとは無関係に、それとは別個に突然手に入れられたものではない。むしろこの既存の記号系の質的な変容を通じて出現したに違いないんだ。個体発生的に言えば、子供はシンボル的記号のシステムとしての言語を習得する前に、まずインデクス記号として、同じコンテキストのなかで生起する他の事象と連合した記号として、その連合を学習するところから始めなきゃならない。言語記号は、この学習のうえに、その質的変容を通じて獲得される。
  • つまり僕らが現に生きている「現実」ってのが、そもそもすでに仮想化された世界、「今ここ」の「実世界」のうえに仮想化された世界なんだってことだ。
  • でもここでのポイントも、ちょうどどんなに奇抜な仮想メモリの仕組みでも、実メモリである物理メモリがまったくなくては話にならないように、言語記号のシステムも、その外部の「実世界」との消去し得ない結びつきに依存しているという点だ。言語が自律的な相互参照の閉じたシステムのように見えるのは、構造主義的幻想なんだってことだ。それは閉じてなんかいない。
  • この議論が明らかにしているのは、少なくとも固有名に関しては、言語の記号どうしの相互参照関係に還元してしまえないってことだ。でも、何が、固有名が記号どうしの相互参照関係に還元されることを妨げてるんだろうか。固有名が、もし確定記述の束、「諸性質の束」以上の何かだっていうのなら、いったいこの「それ以上の何か」とは何なんだろう。クリプキは、固有名は固定指示詞であるという。最初の名指しの行為が、共同体の中でいわば語り継がれてきたという事実の結果だというのだ。私たちがアリストテレスという名前によって「あの」男を固定的に指示することができるのは、語り継ぎの連鎖を通して、私たちが最終的にその最初の命名行為にたどり着くことができるからだ。
  • クリプキがここで最初の名づけといっているものが何にあたるのか、おそらく勘のいい皆にはもうわかったことだろう。リファラントとのあいだに最初に成立したインデクス的な連合関係だ。つまり固有名は、同じコンテクストにおいて共起し、そこで互いに連合づけられたという事実を、引きずり続けている記号だってことだ。もちろん、クリプキ自身はこうした言葉では語ってないけどね。
  • ジジェクも、その辺のぶっとび加減は似たようなものだ。ただしクリプキにより忠実に、固有名と普遍的種を表示する種名とを区別せず、指示の根拠を問うている。われわれは指示する対象を、その記述的な性質によって決定するのか、最初の命名儀式にさかのぼる外的な因果連鎖によって決定するのかという問題だ。
  • ある意味では、固有名には、たんなる諸性質の束以上の「何か」=過剰がふくまれているようであり、またある意味では、言語記号の相互参照の網の目からはずれた空所でもあるってことになる。柄谷は、その過剰を「単独性」と名づけるわけだし、ジジェクはその空白を「現実界」の根拠ととるわけだ。で、なんだか大げさな話になる。
  • 複数の勘違いが重なり合っている。第一に言語の第一の使命が、もっぱら世界を写像(描写)することにあるみたいにとらえられていること。もともとは危険に対して警告を発したり、作業を協同化したり、ナンパしたり、たぶらかしたりする際の通信手段であって、シンボル言語獲得以前の霊長類段階ではもっぱらインデクス記号によって遂行されていたのと同じような機能がめざされていたはずなんだよな。そこの部分をそっちのけにして、表象という機能ばかりで言語を眺めるってのは、出発点からちょっとおかしい。
  • 第二に、言語の不完全性なんてものは、そもそもこんな風に、世界を写像すべきものとして言語をとらえようとするからはじめて出てくる問題であって、こんなことで不完全だのなんだのと文句つけられちゃあ、言語の方でもたまったものじゃない。世界を表象するという機能は、それまでインデクスのみによって行われていたコミュニケーションに代わって、シンボル的コミュニケーションが用いられ始めた当初には、せいぜいおまけ程度のものだったに違いないんだから。
  • 反実仮想にもとづく可能世界において、指示が固定しているかのように感じられるという「直感」は、実は、ヒトラーについてのその他の諸記述の存在に暗に依存していたのではないだろうか。クリプキの、すべての可能世界においても指示は固定しているという「直感」は、<その固有名についての他のすべての記述を不問に付すとしたら>、<他のすべての点において同じであるとしたら>という条件節によって支えられた「直感」だったとはいえないだろうか。
  • もしそうなら、固有名は、つねに部分的には随時修正可能な諸記述の束と結びついているってことだ。随時修正可能であるというその性格が、他の諸記号との相互参照関係の網の目の中に、固有名が取り込まれることを拒んでいる。でも、それだけのことだ。別に、一切の記述をはぎとってもなお、対象を固定的に指示し続けるなにか不思議な力がやどっているような、そんな大それたものじゃない。対象aであれ「単独性」であれ、そんなものを持ち出してくるのは、どう考えても場違いなはなしだ。
  • 固有名が指示固定的なのは、別に固有名になにか特別な力があるからなんかじゃない。固有名の使用が(そしておそらくあらゆる言語記号の使用が)、かならず他者によるその使用を引き継ぐという形でしかなされないこと、それが指示の固定性のあまり当てにならない保証になっているのだ。あてにならない。ってのは、誰でも間違って引き継いでしまったりすることがあるからだ。
  • 固有名はたしかに、なんだか、特定のコンテクストにおけるその指示対象とのインデクス的結びつきを繰り返し反復し続けているみたいにも見えるのだ。当面のコンテクストにおけるその指示対象について、新たに判明する事実によって、固有名に結びつく記述の集合(他の記号との相互参照関係)は頻繁に訂正を受け続けることになる。とすると、やっぱり固有名が対象を指示する仕方は、他の種名とは根本的に違っている、つまり固有名には指示を固定する何かがある、なんてことになってしまうんだろうか。
  • 僕はそうではないと思う。むしろこのことは、そもそも固有名が、言語記号を構成するその他のシンボル的記号とはまったく別種の記号、つまりインデクス記号である、いやそれどころか厳密な意味では「記号ですらない」ものだってことを示しているんだと思う。固有名は、シンボル的記号が何かを意味したり指示したりするようには、その対象を指示したりしていない。
  • つまり「ソクラテスと呼ばれている男」とは「ソクラテスという名をもつ男」「ソクラテスという名前を所有している男」である。この言い方は、名前と人物との関係が、記号とそれが指示するものとの関係であるというよりは、むしろ人とその所有・領有の関係だってことを示唆してる。名前は「記号」というよりは所有物である。この事実が、それらの所有物とその人物とを換喩的関係(つまり同じコンテキストにおける共起、隣接の関係)にたたせる。かくしてそれらの事物は、インデクス的にその人物を指示する記号としても用いられうるかもしれない。
  • 有名が指示固定的に見えるとしても、それは、なぜだかわからないけど指示が固定しちゃってるよぅ、あにきぃ、みたいな固有名の不思議な力に関係しているわけではない。単に所有関係が固定しているだけの話だ。不思議でもなんでもない話だ。固有名がその持ち主を「指示する」ことができるとしても、それはこの固定した所有関係のおかげである。その所有関係が保証しているインデクス的な関係をとおして指示しているんだ。
  • 固有名と名前の持ち主との関係は、なによりもまず「所有」の関係であって、指示の関係はそれにもとづく二次的な関係に過ぎないってことをだ。固有名とは、どこまでいってもインデクスであることを止めず、したがって記号の相互参照関係に還元されることを拒み続けている言語の部分集合なんだ。それは僕らの使っている言語が、もともとのインデクス的記号体系のヴァーチャル化によって成り立っているという事実を、繰り返し思い出させる。