自分用メモ1

http://d.hatena.ne.jp/BJK/comment?date=20050414#c
(勝手に引用してすみません。。)

 認知科学、進化論、文化人類学の接合に関して、

# BJK 『一方がもう一方からインスピレーションを得る、というレベルでは話がうまく行く気がします。実際進化生物学系読んでないのでアレですが、
そして繰り返しになりますが、人類学には、人類学自身の歴史に基づく、
・反決定論構築主義、文脈依存的な説明を好む
・反原子論(「文化」等を要素に還元することを嫌がる)
・目的論(生存のための行動、とか)から距離を置く
と言う姿勢があり、それがちょっと隔たりを埋めるのを躊躇させるのだと考えます。「淘汰」概念も、やっぱり人類学がピントを合わせる時間とスケールの違う時間での話な気もするし、あと、「物事は理屈どおりに進まないのだ」と考えて、モデルから事例を探すよりも、ある程度後からモデルを作る方が好きだ、とか。(以後略)

# Gen 『(中略)思うに、文化人類学には二つの側面が混在している、ゆえに(必要以上の)混乱が生じているのではないでしょうか。

1.自らが拠って立つもの(「文化」)を相対化する契機としての文化人類学
強引に要約すれば、浜本さんは「普遍主義vs相対主義は見かけの対立軸だ。本当の対立軸は己の拠って立つポジションの絶対化vs相対化だ」とおっしゃってましたが(http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/published/relativism.html)、「反決定論」「反原子論」「反目的論」といった際に、なぜそれが文化人類学のコアに関わるのかといえば、やはり相対化のモメントとしての使命を文化人類学は持つからではないでしょうか。』


2.「文化」という分析概念を軸にして社会理論を構築するための文化人類学
「認知」「進化」と親和性が高いのはこちらでしょう。(中略)スペルベルは「表象」がいかに心的機構と物質(発話されたもの・制度・人工物)の間を流通・分布するのかを解明する「表象の疫学」が必要だと述べていますが、最近の彼は、2.を重視していると思います。(彼は「表象の疫学」以外のアプローチを「解釈」という言葉で括ってしまうのですが)


もちろん、わたしは文化人類学の古典に親しんでいないので、見当違いのことを言っているのかもしれません。また、1と2は対立するものではなく、理論があってはじめて相対化も可能となるのでしょう。ただし、社会理論構築の際にひとつの方法として、進化心理学的知見などを取り入れ、厳密な「文化」モデルを構築する道があっても良いと思います。その際に、「淘汰」という概念、ないし進化アルゴリズム的考察は、ひとつの役立つ武器ではないでしょうか(「ミーム論」は失敗していますが)。

厳密な、再現可能性の高いモデルを構築するには、ある種の「還元論」「決定論」がどうしても必要になると考えます。しかし、こればかりを追求していると、心理学ないし社会工学と自らを差異化できなくなるので、文化人類学が直球として採用すべき道だとは思いませんが。

 モデル構築とはなんぞや

 社会学文化人類学を学んでいて真っ先に感じるのが、「現状の固定化された状況から排除されているものを掬い上げるために、いかにズラすか、いかに現状の構築性を暴くか」が、通底奏音のように重視されていること。「脱構築」にしろ「知の考古学」にしろ「相対主義」にしろ。
 ふたたび、id:BJKさんの所から引用させていただくと、

 …と書いていたら知人からメールが。方向性が近いので、ここに載っけたいけど「絶対ダメ」と言われるだろうから載せませんが、僕も人類学が「対象ありき」で(少なくとも今までのところ)やってきたこと(どれほど精巧にモデルを作り上げたところでそれを反映する/それを使ってうまく説明できるような「対象」がないと面白くない)、そして「その他の変数は一定と仮定して」みたいなことに対する抵抗こそが人類学の重要な特徴の一つであること、という指摘に同意します。

 『「その他の変数は一定と仮定して」みたいなことに対する抵抗こそが人類学の重要な特徴の一つであること』という時、上述した社会科学的な伝統を見事に踏襲していると感じる。そして、社会工学とは異なる文化人類学(社会科学)固有の強みがあるとすれば、そこなのだとも思う。


 それに対して認知科学や進化論は、必ず「その他の変数は一定と仮定」する。何かを固定しなければ、科学的検証(実験や統計)に耐えうるモデルは構築できない。ベクトルは、「現状をいかに少ない言葉でシンプルに説明できるか」に向いている。「現状をズラす(=自らを問い直す)」ことはさしあたって志向されない。


 社会科学に認知系の理論を輸入する際、このベクトルの違いをきちんと意識する必要があるのではないか。ここがぐちゃぐちゃになっている議論、混ざっているせいで社会理論構築が甘くなっている議論が多いと思う、のは学部生の勇み足だろうか。


 ただしひとつ付け加えたいのは、認知科学が必ずしも現状肯定ではないこと。たとえ生態学的妥当性が低くとも、たとえ「状況に埋め込まれて」いなくとも、ある実験データが、数量的なものであるだけに、強烈なインパクトを持つことがある。たとえば、「日本人は集団主義的/アメリカ人は個人主義的」という通説を見事に覆した一連の心理学実験(http://genxx.com/blog/archives/000135.html)。あるいは、意識と行動の結びつきに強烈な疑義を投げかけた下條さん(サブリミナルマインド)。無意識の問題系に関して、精神分析学的考察よりも実験心理学的データに魅力を感じてしまうのは、わたしが心理学科に在籍しているからだろうか。


 もう一点。前引用部の『人類学が「対象ありき」で(少なくとも今までのところ)やってきたこと(どれほど精巧にモデルを作り上げたところでそれを反映する/それを使ってうまく説明できるような「対象」がないと面白くない)』というところ。


 進化/認知理論を嬉々として語るわたしに、「でも、実際にフィールド出てみなよ。フィールド出たらそんな理論は成り立たないから。厳密なモデルを組み立てたいなら、フィールド(対象)志向をある程度あきらめる必要がある」とおっしゃった方がいたが、まさにその通りなのだろう。冒頭引用部の『「物事は理屈どおりに進まないのだ」と考えて、モデルから事例を探すよりも、ある程度後からモデルを作る方が好きだ、とか』の部分と対応するのだが、心理学がある程度厳密なモデルを構築できるのは、研究者の側から環境をセッティングするからであって、フィールドワークを命綱とする文化人類学が、進化論/認知科学の輸入に際して限界を持つだろうことは、想像にたやすい。


 スペルベルの言う「表象の疫学」を具体的に演じた民族誌(フィールドノーツ)を探しているのだけれども、なかなか見つからない(ご存じの方がいらっしゃれば教えてやってください‥)。もちろん、いくつかの点で、具体的なフィールドワークに活かせる進化論/認知科学の輸入の仕方があるのだと思う。それがBJKさんのおっしゃる「一方がもう一方からインスピレーションを得る、というレベルでは話がうまく行く気がします」ということなのだと今思い当たる。そしてそれを探るのが、2本目の卒論のテーマです。フィールドに出たことがないので、絵に描いた餅をつかむ作業に違いないのですが。結論としては、またしてもメタ論を語ってしまった自分に、反省。