科学技術に関する意志決定と責任境界(不確実性下の責任)

 科学技術をめぐる意志決定の責任は、誰が引き受けるのか。

1.専門家のもつ責任境界
2.行政の責任境界
3.一般人の責任境界

  • たとえば、市民が参加するコンセンサス会議の決定でもし被害を受けるひとが出たら、その賠償責任は誰がとるのだろうか。被害にあう人が会議に参加したかによって、「責任」のあり方が変わるのだろうか。

 厳密な科学上の解明を待つのでは遅すぎる場合、不確実性のもとで社会的意志決定をしなくてはならない。あるいは事前には予測できない複合要因によって発生する問題に、社会は対応しなくてはならない。そのときの責任は、誰が、どのようにとっていくべきなのだろうか。不確実性下の責任の取り方は、科学の関係する行政にとって避けて通れない問題である。
 不確実性下の意志決定における責任の所在は、ひとつの難しい問題である。専門家や行政がすべて予測可能な事態を「隠した」のであれば、専門家や行政に責任を課すことが出来る。しかし、予測が出来なかった事態についての責任は、誰が、どのように取るべきなのだろう。
 時々刻々と変化する事実(作動中の科学)に対応して、ある時点での「事実A」に基づいた判断が、数十年後の「事実B」からみて誤っていた場合、事実Aに基づいた判断のもつ責任は、どのように定式化していけばよいのだろうか。時々刻々と書き換えられる妥当性境界をどこで「切って」、どこに責任配置を考えればよいのか。第二種の過誤(問題があったのに、ないと判断してしまった)を避けるようなシステムはどのように構築可能か。このようなことが、行政の責任論として問題になる。

 予測できなかった事態の責任のとりかた
1.「その時点で選択可能な最良の選択を行う」行政担当課責任の方式
2.「その時点で発表可能な情報すべてを公開し、国民に選択してもらう」自己責任方式

 以上、藤垣裕子さんの論点。


4130603027専門知と公共性―科学技術社会論の構築へ向けて
藤垣 裕子

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 だから、市民参加なんて無い方が本当は楽なんだよな。責任引き受けなくて、ただ国を糾弾すれば済むのだから(やや皮肉)。そして、「その時点で発表可能な情報すべてを公開し、国民に選択してもらう」ってのも実は簡単な話じゃない。そこにリスク心理学が介入する余地がある。(あるいはリスク言説[の流通]をめぐる社会科学的な分析も)