決定論と運命論と主観的な必然的感覚

 まず、ブルデュー社会学社会学』から、BJKさんが抜かれた部分をメモさせて頂き‥
http://d.hatena.ne.jp/BJK/20050319/1112483348

―さっきの質問に帰らせていただきますと、あなたと心理学や社会心理学などとの関係はいかがでしょうか。

  社会科学は個人の問題と社会の問題でいつもつまづいてきましたからね。じっさいのところ、心理学、社会心理学社会学といった社会科学の区分というものは、私に言わせると、そもそも最初に定義するあたりで間違って作られてしまったものです。個人は生物学的個体だという直接の確証があるものですから、社会とは二つが切り離しがたい形で存在するものだ、ということを見えなくしてしまいます。それは、一方では、建物とか、本や道具といったような物理的な形をまとう制度がそれで、他方では、身体に刻み込まれた持続的な存在の仕方、するやり方[存在と作為の仕方]、つまりは後天的に習得した性向(私はこれをハビトゥスhabitusと呼んでいます)がそれです。社会化された身体(個人とか人とか呼ばれる)は社会と対立するようなものじゃありません。それはいろいろな存在の仕方の一つだということです。(37)


―だから、あなたはモデルを実在に代用してしまう「客観主義的」アプローチの対決なさったわけですね。…

(中略)社会学者がなしうる最良のことは、書く文体や図表、図面、地図、モデルなどの使わざるをえない客観化の技術が、どんな不可避な効果をもたらすかを客観化してみるということです。一例を挙げますと、『実践感覚』のなかで私が示そうとしたのは、次のことです。観察者のおかれた状況の効果とか、その対象をつかむために使う技術の効果とかに懸念をもってみることがなかったので、民族学者はそのままあっさり「未開人」を対象としてでっちあげてしまったのです。… (40)


―あなたの社会学人間についてのある決定論的見地を伴ってはいませんか。人間の自由にまかされている部分はいったいどれくらいあるんですか。

 …それはともかく、決定論という言葉には、まったく異なった二つのものがよく混同されております。事物の内に刻み込まれた、客観的な必然性と、「生きられた」見た目での、主観的な必然性、必然性という感覚あるいは自由という感覚です。社会的世界が我々には決定されていると見えるその程度は、われわれがこの世界についてもつ認識のいかんによります。反対に、この世界が現実に決定されている程度は、意見の問題ではありません。社会学者である限り、私は「決定論を支持する」か、あるいは「自由を支持する」かする必要はないのであって、もし必然性が存在するなら、それがあるところで、まさしくそれを発見しなければならないのです。社会的世界の諸法則の認識が進歩すれば知覚された必然性の程度が高まるという事実からすると、かえって社会科学が進むほどに、「決定論だ」という非難を買うようになるのは、むしろ当たり前なのです。… *2(57)


次に、科学哲学研究者、西脇与作さんのプリントからひとつ‥(強調部は引用者)

 ラプラスの魔物は、任意の正確さで初期条件を測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。これが決定手続きを考えたときの魔物に課せられる条件である。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もないものである。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に保証できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。


 このような魔物の主張はわたしたちの行為にも当てはまるのだろうか。自分や他人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論(fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係であるというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力であることを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

 うーん、個人的に煮詰まらないな。