デザイナーのレセプションパーティに行ってきた@原宿FACTORY

 デンマーク人のヘンリック・ヴィブスコフ(HENRIK VIBSKOV)http://www.d-i-r-t-y.com/index2.html?first=http://www.d-i-r-t-y.com/guests/int_vibskov.html。パリコレにも出しているこれから伸びそうなデザイナーらしいけど、いやー業界人ばっか。さすがにトークきつすぎ。引き出しなし、所在なし。北欧特有の花火的な色遣いが印象的。

 文化人類学が表象するもの――博物館学的側面

 http://d.hatena.ne.jp/Gen/comment?date=20040721#cでのid:ecritsさんの

文化人類学者のやろうとしていることは、「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていくことなのか、それとも彼らの心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試みなのでしょうか?

という疑問への自分なりのコメントです。研究者、あるいは各々の研究が取るスタンスによってまちまち、というのがさしあたりの答えでしょうか。長ければ斜め読みして下さい。


 まず文化人類学には(学問のアイデンティティとして)博物館学的な側面*1が多分にあるということ。この場合は<「未開」の人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく>というよりも、研究者にとって目新しいもの(そして西欧近代文明の浸食により「失われつつある」もの)を収集・保存していくことが目的となります。「インドネシア博士」的な人類学者が(現在でも)たくさんいるのも、この目的に照らせば、納得できます。さながら歴史学における歴史記述のように。ただし「純粋にある文化の習俗を記述・保存する」ことは不可能だという自覚から、以下のような流れになっています。

「研究対象との相互作用の産物」や、民族誌そのものの「時代的・社会的構築物」さらには「民族誌家の創造的思考の産物」ひいては「かつて研究対象となった人々が自己の集団の文化的アイデンティティを構築する際の再帰的リファレンス」という意味まで付与されるようになった(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

研究者が純粋に収集・保存を試みても、もしかしたらそれは「近代西洋的な概念で読み解いて(目の前の現実を取捨選択して)」いるのかもしれません。表象行為が、特定の社会内部での社会的な実践であることが自覚されるにつれて、それが内蔵する政治性にも無自覚ではいられなくなり、民族誌の実践を、表象を産出する社会と表象される社会との間の政治的・経済的・文化的権力関係の中で捉え直す必要が生じてきた。そしてこうした諸問題を考え直す実践の場として文化人類学は存在しているともいえます。

*1:民俗学」は本質的にコレなのかもしれない

 「文化」の分類・解釈・体系化を試みる文化人類学

 とはいえ、収集・保存だけではなく、「文化」に対する何らかの分類や解釈、体系化が行われるのが通例です。最も広範囲に用いられている方法は「比較」です。ひとつは機能主義や構造主義に代表される通文化的比較、もうひとつは歴史人類学に代表される通時的(歴史的)比較です。あるいは、象徴人類学では、「文化」を象徴的に解釈しようと試みます。ギアツの解釈人類学や山口昌夫の記号論もこれにあたるでしょう。レヴィ=ストロースはこう述べています。

……数百年後に、この同じ場所で、他の一人の旅人が、私が見ることができたはずの、だが私には見えなかったものが消滅してしまったことを、私と同じように絶望して嘆き悲しむことであろう。(レヴィ=ストロース、『悲しき熱帯』)

やはり人類学者は「データを解釈してなんぼ」という意識を持っているのでしょう。そしてデータを解釈する際に依拠する分析枠組みは当然自らが属する文化(学問的)価値観であるので、研究者が意図せずとも「近代西洋的な概念で読み解いて」いるといえるでしょう。


 ただし、「文化人類学者のやろうとしていること」は、概して「近代西洋的な概念*1」自体を相対化することにあるといえます。レヴィ=ストロースも「私には見えない」と言うことでこのことを自覚しています。彼の代表的著作『野生の思考』は「未開の思考」が「科学的な思考」と変わるところが無いことを示そうとしました。彼は「近代西洋的な概念」を問うている。しかし同時に自らの分析(語り)に「未開」を回収してしまったともいえる。難しいところです。

*1:自分自身が依拠している分析枠組み

 社会学と文化人類学のの差異

 とある教授に「社会学文化人類学の違いはどこにあると考えるか?」と尋ねたところ、

社会学は、ある研究対象に対して、まずかちっとした分析枠組みを立て*1、その中で整合性をはかりながらしらみつぶしのように研究を行っていく。モダンな方法が用いられることが多い。一方、文化人類学では、その分析枠組み自体を問うところからスタートする。ぐるぐる迂回しながら探求してゆく。だから現在はどうしようもなく停滞してしまっている。でもこれは可能性でもある」

と述べていました。別の言い方をすれば

現代社会において、民族誌の意義が多義的であることは、文化人類学を天職とする研究者にとっては福音であるが、初学者や門外漢にとっては、むしろ「非科学的」ステレオタイプが貼られやすいことも事実である。(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

ともいえるでしょう。この文化人類学の「途方のなさ」に嫌気がさして、この前も、とある院生が退院し就職してゆきました。そんな現状です。


 たとえば統計学的手法を用いれば、ある調査地域のあるサンプルから全体(母集団)に対してどれだけのことがいえるのか、より科学的に根拠を持った形で示すことが出来る。しかしそれはあらかじめ存在する(統計という)分析枠組みに依拠することでもあり、むしろ(モダンな分析枠組みである)統計自体を問うものとして文化人類学は存在すべきなのではないか、ともいえます。他の例では、社会学や心理学の領域において「質的研究」なるものが最近流行ってますが、質的研究(定性的研究)の方法論を精緻化することは、一方では科学的な信頼性を上げることだけれども、もう一方ではモダンな方法論に従属することでもある。文化人類学者の舵取りは難しいところです。唯一依拠できるのはフィールドワークのみなのだから。

*1:イメージとしては立方体を組み立てる感じ

 emicとetic――文化人類学は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」るのか?

 id:jounoさんご指摘の<エミック/エティック>の対比は、言語学者K.パイクの<音素的な記述/音声的な記述>の対比に由来しますが、エミックな視点からの文化研究は、個別文化の内側から見て意味ある概念を見出そうとし、エティックな視点からは、どのような文化についても適用できるような概念を研究者が体系化しようとします。エミックな視点からの研究は「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする試み」だとさしあたり言うことはできます。しかし

 文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局何を意味するか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。(『文化人類学キーワード』pp.8-9.)

という指摘が行われるに至っては、前述した表象の(権力)問題が絡んできて、一概に「人々の心理状態にできる限り接近することによって彼らを理解しようとする」とは言えなくなります。<エミック/エティック>は明快に二分できるものではない。ただし、文化人類学の志向としては、「エミック」なアプローチが試みられる場合が多々あるようです。

 都市人類学は、都市の全体性を鳥瞰的に示すのではなく、どこか考察のプロセスであるいはその分析方向が指し示す延長線上で、都市の全体性の「断面」を示してその全体性を「示唆し」ながら、逆にきわめて繊細で微的な都市住民の「喜び」や「悲しみ、つらさ」の中の人びとの踏ん張りや営みを描こうとする。こうして、都市人類学は、心意という人間の心中にあるきわめて繊細な動きと、都市全体の構造性という巨大性とを架橋して、そしてあくまでも人間から都市へ、微細から巨大へ、部分から全体へ、下から上へという方向性をもって、都市社会の生活像を描くものであり、そこにオリジナリティがあると考える。(「都市に生きる人のための都市人類学」和崎春日『文化人類学のフロンティア』所収)


 逆に「エティック」な文化人類学の試みとしてはマーヴィン・ハリス(ex.『ヒトはなぜヒトを食べたか』)が有名です。生態学的人類学など。うちのガチガチの実験心理学教授がマーヴィン・ハリスを絶賛していたのが印象的。あるいはこれから盛んになると思われる進化論を取り入れた人類学的アプローチも「エティック」な試みにあたるでしょう。これはモダンな方法論(人々の生活を近代西洋的な概念で読み解いていく)といえますね。

 文化人類学とは何か

 フィールドワークに重きをおいたアプローチ。

 眼前で展開される人々の生が不可解に見え、そこに自分が自明として理解するものとは異なる自明性と常識の世界があると思われれば、そこがフィールドとなる。(『文化人類学キーワード』pp.2-3)

 「未開」社会だけではなくマンガ産業のネットワークも病院も原子力発電所もなべて研究対象となる。
 方法論は百華絢爛。閉塞・停滞でもあり可能性でもある。モダンな方法論を疑う立場もあればモダンな方法論に則る立場もある。いずれにせよid:m-keatonさんが述べるように「表象する」とはいかなる営みなのかを絶えず問わねばならない。同じ「表象」でも表象文化論との違いは、おそらく(文化人類学においては)表象の快楽それ自体に身をまかせにくいこと。こんなところでしょうか。


#どなたかコメント欄で疑問・誤りを指摘していただけると幸いです。またロクなフィールド経験なく記述しているので、経験者の方のコメントなども頂けると嬉しいです。


#>id:ecrits たしかアガンベン専門?仏文の友人がアガンベンを専門にしています。興味深いですね。

 神奈川新聞花火大会

http://allabout.co.jp/travel/travelyokohama/closeup/CU20020703/index.htm
 みなとみらいの花火大会。これは行こうかと。人混みも隅田川花火大会ほど多くないし雰囲気がよいのでオススメ。そして不思議なことに横浜の花火大会には「暗黙のルール」が存在しているという(http://blog.livedoor.jp/sin8/archives/4497944.html)。実証してみよっと。酒!酒!火薬の匂い!ムラムラくる。