M.ウェーバー「社会科学的および社会政策的認識の「客観性」」より。

 ウェーバーの言う「理念型」。彼はある理論が個別的にしか成り立ち得ない(普遍としては存在し得ない)ことを指摘する。だが同時に彼は、個別性の認識は普遍性を追求しなければ立ち現れてこないこと、個別的(相対的)、だからこそ普遍を問う必要があることをも示唆していたのではないか*1

 多様性と可変性を制限する為のきわめて有効な道具としての相対主義という逆説。

というhttp://d.hatena.ne.jp/jouno/20040629#1088509123での指摘につなげて考えてしまった。

 我々の科学の領域においては、むしろ、偉大な概念的な構成のいくつかの試みがそれぞれ価値を持ったということは、その試みの基礎にあったところの観点の意義の限界を、それ自らがはっきり明るみに出したという点に、通常まさに存したのである。(pp.145-146)

 とことんまで考え抜いた人にとっては、鋭い発生的な概念は必然的に[主観的/相対的な*2]理念型になるという事実があっても、そのことでかかる概念の構成を否定はしないであろう。(中略)...概念の内容が、必然的に変遷しうるものであればこそ、かかる概念は必然的にそのつど鋭く定式化されなければならない。(p.148)

 個々の、そのつど指導的な観点から見て鋭くかつ一義的な概念が構成されることによってこそ、まさに、かかる概念の妥当する限界が、そのつど明確に意識に留め置かれる可能性が与えられる(pp.148-149)

 相対性に安住することは、すなわち相対性を重みを持って抱えていない、己の傷のように抱えていないということなのだろう。相対性の内部で鋭く「一義的な概念を構成する」、すなわち普遍へと開いていく試みこそが、己自身の個別性を明らかにし、そうすることによってしか<知>の深化はありえないだろう。
 なにも<知>の話に限らない。ここでサミュエル・ベケットを想起する。彼を見ていて思うのは、人は普遍を希求する、だが最終的には「私は」の語りに回帰してくるということ。その際の「私」は開かれている、だがよりいっそう閉じこめられている性質の「私」だろう。もっとも、なんといっても彼の顔の皺に打たれてしまうのだが。どれほど刻まれているのだろう。

*1:これは自分なりの解釈だが。

*2:引用者が解釈して勝手に補いました。

 M.ウェーバー「社会科学的および社会政策的認識の「客観性」」より、自分のための写筆メモ。

 史的研究上の概念とは、「本来何なのか」「真実とは何なのか」と、その意味を突き止めようとする試みは、絶えず繰り返されるが、しかしその試みには、これで良しという終わりは決してない。したがって、全く正常なことなのだが、それらを使って歴史学が絶えず研究するところの総合は、単に相対的にのみ規定された概念に止まるか、それとも、概念内容を一義的にすることが、どうしてもなされなければならなくなると、その概念は、抽象的な理念型となり、こうして概念は、理論的な、したがって「一面的な」ある観点からのものという意味で、姿を現すことになる。その際現実は、この観点から照らし出され、また、現実はこの観点に係わらしめられ得るのである。
 しかしながら、かかる概念は、現実がくまなくその中に組み入れられようと思えばできるような図式としては、当然のことながら役立たないことは明らかである。というのは、現実のそのときどきに意義ある構成部分を把握するために、なしに済まし得ない、あの思惟体系は、どれを取っても間違いなく現実の汲めども尽きぬ豊かさを汲み取ることはできないからである。
 また、あの思惟体系はどれも、そのときどきに我々が関心をもつ範囲内に、我々が引き入れたいくつかの事実の示す混沌に、そのときどきの我々の[因果などについての]知識の現状と、我々がそのときどきに自由に使いうる概念的な構成体とに拠って、秩序をもたらそうとする試み以外の何物でもないのである。
 また、過去の人びとは、直接に与えられている現実を思惟によって加工することを通して、しかしこれを別にいえば実は、あの現実を[何らかの一面的な観点に基づいて]思惟的に整理し直すことを通して、さらに彼らのそのときの認識の状態と彼らのそのときの関心の方向とに照応したいくつかの概念の中に、整理し直された現実を、組み入れ、秩序づけ、統合することを通して、彼らは、彼らのもつ思惟装置を展開したのであるが、この思惟装置から生じたものは、我々が、[新たな思惟装置を展開しながら]新たな認識に基づいて現実から獲得することができ、また、獲得したいと思うことと、絶えず対決することになるのである。かかる戦いのうちに、文化科学的な研究の進歩は遂げられていく。したがって、かかる科学の研究成果というのは、我々がそれらを駆使して現実を把握しようと企てるところのあの諸概念の絶えざる変形過程なのである。

 かくて社会生活に関する科学のとる史的展開は、事実を概念構成によって思惟的に整序しようとする試み――かくて獲得された思惟像の、科学的な視野の拡大と、[それの他の新たなものへの]推移による解体――次いでかく変化した基礎に基づく諸概念の新たな構成――以上三者の間の絶えざる交替であり、これからもそうあり続けるのである。

 現実から乖離する理論

 諸概念は彼には目標ではなく、個別的な観点からで意義ある諸連関を認識するという目的のための手段なのである。

 これは本当に重要な点だと感じる。ある命題は自らが属する理論体系内での整合性を保とうとして、不自然に現実から乖離したものとなる傾向が多々見受けられる。その際に突破口は、たとえば社会学に対する認知科学からの棄却、あるいは学システム以外からの棄却といった形に、あるのではないか。それ故に視野は広く保ちたいと考えて生きてきた。たとい浅くとも。

 理念型

 彼の求めるのは、かかる概念を使用する場合にはいつも、理念的な思惟上の構成物であるという、その性格が、入念に保持され、[研究者が構成する]理念型と[対象の]歴史事実とが混同されないことだけであろう。

 これは実際にはかなりナイーブな問題でもあることが、投げやりな気持ちを少し誘発する。さてと、心理学プレゼンの準備をしますか‥