朝生でマジギレ

http://www.geocities.jp/whitepoem345/20040626.wmv
 キレた本人を馬鹿扱いするのはたやすい。むしろここは<全国ネットのテレビでの討論の場>というコンテクストから一人だけ(バルトの「悦楽」的に?)抜け落ちた彼が見せてくれた世界を楽しみたい。
 ある種これは学システムの相対化の瞬間でもあるのかもしれない。世界の違った側面が顔を出す瞬間というか。そう、朝生は語りの内容よりも語る人の人間性を(振る舞いも含めて)楽しむものですよ。その意味では、全身を賭けて語るという意味では、香山リカ遙洋子というのが自分の評価だったり。

 「社会科学的および社会政策的認識の「客観性」」(M.ヴェーバー、講談社学術文庫版pp.62-63)

 特殊な、また「一面的な」何らかの観点に依存しないでは、文化生活の、あるいは「社会現象」の全く「客観的な」科学的な分析というものは存在しないし、この観点に拠ってある社会現象が――明示的に、あるいは暗黙のうちに、意識的にあるいは無意識的に――研究対象として選び出され、分析され、統一的に整合的に叙述されるのである。その根拠は、社会的な共存生活を規律する規範――法律的であれ、因襲的なものであれ――の純形式的な考察を越えて[社会現象を経験的にそれに即してしかも主体的に]みようとする、すべての社会科学的な研究の認識目標の特質のうちにあるのである。

 特に面白いことを言っているわけではないのだが、言語化された記述で再確認。個別的、かつ普遍的。<個別/普遍>に関して、まだ言語化できないことが多い。む。ひとつひとつ考えてゆくか。


http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040629#1088509123
きわめて面白いです。「アイロニカル」な態度に安住することそのものがある立場を維持させ続けている、という視点を含みつつ。


 また、いかなる精緻な理論も学システムという限られた領域でのリアリティを構成するものであって、全体(社会)を考えた場合、必ず個別的となる。科学的言説の価値は普遍性を捉えることにある、が、まさに普遍性を捉えた瞬間を仮定しても、結局は個別的となる。このことへの謙虚さを失ったとき

ある天文学者は、夜になるとしょっちゅう、星を観測しに郊外へと出かけて行った。ある晩、彼は、星に気を取られていて、誤って深い井戸に落ちてしまった。
 彼は、打ち身や切り傷をつくって、悲鳴を上げた。その声を聞きつけて、近所の人が井戸へと飛んできた。そして何が起きたのかを知ると、こんな事を言った。
「天国を覗くことばかりに、うつつを抜かしてないで、少しは足下に注意を払いなさいな」

というイソップ寓話にもてなされる。この寓話が示すのは<個別/普遍>を同時に備えることを失敗した者の姿なのではないか。「天国」という言葉が多分に示唆的。

 色気の条件

1.開く
2.閉じる
3.臭う

 1と2は比喩的な意味で。性に開いてる感じは必要条件。でも開いてるだけだと瞬間で飽きる。開くと同時に閉じる。当たり前だがこれが肝だといつも思う。綱引きの巧みさ。3はどうしても生物学的なものの重要性。臭いの相性という「相性的生物学的制約」+エストロゲンの多さという「絶対的生物学的制約」。ただ色気に限ったお話。でもでかい。
 「あたし産婦人科の臭いがするっていつも言われるんだよねー」とか自慢してた人がいた。自惚れすぎないようにね。