決定論と運命論と主観的な必然的感覚

 まず、ブルデュー社会学社会学』から、BJKさんが抜かれた部分をメモさせて頂き‥
http://d.hatena.ne.jp/BJK/20050319/1112483348

―さっきの質問に帰らせていただきますと、あなたと心理学や社会心理学などとの関係はいかがでしょうか。

  社会科学は個人の問題と社会の問題でいつもつまづいてきましたからね。じっさいのところ、心理学、社会心理学社会学といった社会科学の区分というものは、私に言わせると、そもそも最初に定義するあたりで間違って作られてしまったものです。個人は生物学的個体だという直接の確証があるものですから、社会とは二つが切り離しがたい形で存在するものだ、ということを見えなくしてしまいます。それは、一方では、建物とか、本や道具といったような物理的な形をまとう制度がそれで、他方では、身体に刻み込まれた持続的な存在の仕方、するやり方[存在と作為の仕方]、つまりは後天的に習得した性向(私はこれをハビトゥスhabitusと呼んでいます)がそれです。社会化された身体(個人とか人とか呼ばれる)は社会と対立するようなものじゃありません。それはいろいろな存在の仕方の一つだということです。(37)


―だから、あなたはモデルを実在に代用してしまう「客観主義的」アプローチの対決なさったわけですね。…

(中略)社会学者がなしうる最良のことは、書く文体や図表、図面、地図、モデルなどの使わざるをえない客観化の技術が、どんな不可避な効果をもたらすかを客観化してみるということです。一例を挙げますと、『実践感覚』のなかで私が示そうとしたのは、次のことです。観察者のおかれた状況の効果とか、その対象をつかむために使う技術の効果とかに懸念をもってみることがなかったので、民族学者はそのままあっさり「未開人」を対象としてでっちあげてしまったのです。… (40)


―あなたの社会学人間についてのある決定論的見地を伴ってはいませんか。人間の自由にまかされている部分はいったいどれくらいあるんですか。

 …それはともかく、決定論という言葉には、まったく異なった二つのものがよく混同されております。事物の内に刻み込まれた、客観的な必然性と、「生きられた」見た目での、主観的な必然性、必然性という感覚あるいは自由という感覚です。社会的世界が我々には決定されていると見えるその程度は、われわれがこの世界についてもつ認識のいかんによります。反対に、この世界が現実に決定されている程度は、意見の問題ではありません。社会学者である限り、私は「決定論を支持する」か、あるいは「自由を支持する」かする必要はないのであって、もし必然性が存在するなら、それがあるところで、まさしくそれを発見しなければならないのです。社会的世界の諸法則の認識が進歩すれば知覚された必然性の程度が高まるという事実からすると、かえって社会科学が進むほどに、「決定論だ」という非難を買うようになるのは、むしろ当たり前なのです。… *2(57)


次に、科学哲学研究者、西脇与作さんのプリントからひとつ‥(強調部は引用者)

 ラプラスの魔物は、任意の正確さで初期条件を測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。これが決定手続きを考えたときの魔物に課せられる条件である。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もないものである。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に保証できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。


 このような魔物の主張はわたしたちの行為にも当てはまるのだろうか。自分や他人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論(fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係であるというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力であることを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

 うーん、個人的に煮詰まらないな。

 Paul Slovic, 1987, Perception of Risk, Science vol.27, pp.280-285. 要旨抽出

 リスク心理学のマイルストーン、記念碑的論文。

◆リスク心理学の目的
 1.災害に対する大衆の反応を理解し予測可能にする
 2.素人と専門家と政治家の間でリスク情報共有を促進し、リスク分析、政治的判断を助ける


◆心理学的実験パラダイムの構築
 1.方法→さまざまな災害について分類、心理物理学的測定、因子分析
 2.リスク認知を量的表象として、「認知地図」を描く
 3.a.現在のリスク度、b.要求するリスク度、c.要求する規制レベル、である災難を量的に評価する。


◆Starr(1969)の卓越性
 技術の(心理的)リスク測定の方法論確立。”How safe is safe enough?”という質問。社会は、リスクと利益の最適な均衡に到達すると結論づけた。
 1.リスクの受容=利益の三乗にに比例する
 2.自発的にリスクを受容した場合=非自発的にリスクを受容した場合の1000倍
また、「リスク」の概念が人により異なることが明らかに。
 1.専門家→リスクの大きさは、年間死亡者数と相関関係があると思考
 2.素人→リスクの大きさは、災害の特徴と相関関係があると思考


◆Paul Slovicの実験
 質問紙法と因子分析の結果、3要素が抽出された。これら要素が強ければ強いほど、人は嫌悪感を抱く。
1.恐ろしさ因子 (Dread factor)
=制御不能感、恐怖感、カタストロフィック、致命的可能性、リスク分配の不公平性
2.未知性因子 (Unknown factor)
=未知、新規、観察不能、実害の真相がわかるまで時間を要する場合(ex.BSE問題)
3.リスクにさらされる人数因子 


◆素人と専門家

  • 素人のリスク認知→ある災害が認知地図(上述した各因子を用いたプロット)のどこに配置されるかに強く影響を受ける。
  • 専門家のリスク認知は、各Factorに影響をあまり受けない→年間死亡者数と連動する


"signal potential"
 災難の心理的な重大さと影響の大きさは、部分的には、その出来事が何を予兆しているかによって決まる。つまり、些細な事故でも、それが潜在的な事故を予感させれば、人々は重大なリスクだと認識する。この際に、先述の「恐ろしさ因子」と「未知性因子」が大きく関わってくる。


スリーマイル島原発事故という転換契機
 死亡者数はゼロだったが、社会的影響(コスト)は甚大だった。つまり、これまでの専門家的リスク分析では評価不能なものがあることを示した。リスクが原発の使用利便性を凌駕し、原発の操業コストが跳ね上がり、他の科学技術推進にまで負の影響を及ぼした。この論文は、この事故をきっかけに着想された。


◆つまり
 高シグナル(先述の3因子)な事故の可能性を減らすことに、労力と金を投資するのが良い。小さな事故は、"signal potential"(予兆性)によって、莫大なコストを生じさせうる。今後、遺伝子技術は、UnknownかつDreadであるため、たとえ些細な事故であっても、莫大なコストを生じさせうるだろう。どのように人々に対して、リスクを(わかりやすく)定量化し、情報を与え、教化させられるのだろうか。

 最近ハマっている科学社会学的なコンテクストからリスク心理学を眺めると、非常に面白い。Dread factorに大きな影響を与える「リスク分配の不公平性」という要素に関しては、社会学Beckが提起した「リスクの分配」の問題群を想起した。


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 若林明雄(1993) パーソナリティ研究における”人間―状況論争”の動向 心理学研究、64、296-312 要旨抽出

 パーソナリティ研究における“人間ー状況論争(person-situation controversy1)”は、1970年代から80年代にかけて、アメリカを中心に展開された。この論争は、行動の決定因として内的要因と外的要因のいずれを重視するかという、パーソナリティ研究だけにとどまらない心理学の根本的な問題についての論争である。その過程では、相互作用論(interactionism)のような理論的立場が再検討されるなど、成果ともいうべきものが見られる一方、一部では不毛な論争も見受けられた。


 論争の端緒となったのはMischel(1968)である。彼は「特性によって人間の行動に時間と状況を超えた一貫性がある」とする立場を批判した。彼の立場を引き継いだ特性論的アプローチに対する批判は、状況主義(situationism)と名付けられた。Krahe(1992)によれば、状況主義とは主に以下のような考え方である。(a)行動は状況特殊的であり、状況を通じての一貫性はない、(b)状況における個人差は、原則的に内的属性よりも測定誤差に帰される、(c)観察された反応パターンは、状況に存在する刺激に因果的に結びつけられる、(d)そのような刺激-反応連鎖を発見する最適な方法は実験である。


 特性派と状況主義の論争を通じて、以下のことが示唆された。1.人間の行動には一貫性と状況による多様性の両方が存在する。2.行動の一貫性には個人差が存在する。3.ある状況は、他の状況よりも、パーソナリティの個人差の役割の大きさに影響を与える。パーソナリティの個人差は、高度に構造化された実験室研究では目立たないことが多く、個人が状況を選択し構成できる状況では現れやすい。4.行動の一貫性と可変性を示すデータの量は、どの立場で研究するか、どのようなパーソナリティ変数を考慮するか、そして速度に何を用いるかに依存する。また、単一の行動よりも一連の行動に個人差が明瞭に現れる。5.人間は、他者の行動と同様に、自分の行動を観察し、それを説明するための理論を構成する。因果帰属は、ある面では現実を反映しているが、パーソナリティ変数と状況変数に与える影響は単純ではない。


 とにかく、重要なのは、人間と状況の相互作用の恒常的なパターンを解明することである。そして、そこでは力動的アプローチが必要となるのである。

 渡邊芳之・佐藤達哉 1993 パーソナリティの一貫性をめぐる”視点”と”時間”の問題  心理学評論、36、226-243 要旨抽出

 パーソナリティは、心理学的には「人の行動を時を超えて一貫させ、比較可能な事態で他の人と異なる行動をとらせる多かれ少なかれ安定した内的要因(Allport,1961)」と定義されてきたが、こうした定義には、1.パーソナリティは行動の原因である、2.パーソナリティは経時的に安定している、3.パーソナリティは通状況的に安定している、4.パーソナリティは内的な要因である、という4つの前提が与えられている。これらの前提のいくつかにMischel(1968)は反論し、その結果「パーソナリティは存在しない」「個性は重要でない」という主張ととられたのだが、本当にそうであろうか。


 Skinnerに代表される行動分析学の立場からでも、「同一時点で、全く同一の環境与件の下で生じる行動の個体差」と定義しなおせば、個性は先天的な個体内条件の差か、より多くの場合3項随伴性における弁別刺激の意味の差としてその図式の中に組み込むことが出来る。すなわち、過去の経験の差が行動に個性を生み出すのであり、徹底的行動主義の図式の上でも個性の存在は否定されない。Mischelは個性の存在を否定していない。


 しかし、個性が通状況的一貫性を持つことは自明なのだろうか。Mischelはこの点を指摘した。行動に見られる個性の通状況的一貫性が実証データからはほとんど証明されないという「一貫性のパラドクス」はなぜ生じるのか。大きな理由は、経時的安定性と通状況的一貫性の混同である。個性には明らかに経時的な安定性がある。だがそれは、その人がおかれた状況の経時的安定性に基づいていることが多い。学習によって形成された行動特性には本来通状況的一貫性は仮定されないし、状況が変化しても行動が安定している場合それは消去抵抗によるのであって、その抵抗の強さ自体も環境与件によって規定されている(Keehn,1980)。パーソナリティ心理学者がこのことを受け入れないのは、「パーソナリティを見る視点」と「パーソナリティを見る時間」という2問題における混乱が存在しているからだ。


 「パーソナリティを見る視点」の混乱について。
 第1に、一人称的視点からパーソナリティを見る場合、対象となるのは「私の個性」であり、通状況的一貫性の問題はいわゆる「自己同一性(identity)」の問題となる。これは客観的に検証不能形而上学的問題であり、客観的・実証的分析以前の超越的事実である。
 第2に、二人称的視点で対象となるのは「あなたの個性」であり、二人称的他者のパーソナリティに関する認識は、相手の運動的・言語的行動の経時的観察から、帰納法論理によって導かれた規則性の認識に基づいている。したがって、二人称的パーソナリティは観察言語に完全に還元できる傾性概念であり、環境与件などの先行条件が変化したときの一貫性は論理的には保証されない。また、観察者の存在は被観察者の行動に大きく影響を与える可能性があるので、二人称的な視点からパーソナリティを見る際には、観察者と被観察者の社会的相互作用が通状況的一貫性の認識を擬似的に生み出していると考えることができよう。
 第3に、三人称的視点から不特定多数のパーソナリティを見る場合も、被観察者の行動を経時的に観察することから、帰納的にパーソナリティ概念を構成するので、これは傾性概念であり、通状況的一貫性は原理的に保証されない。そして、二人称的視点では存在した観察者と被観察者の相互作用も存在しないため、擬似的な通状況的一貫性の存在は確認されない。このように、これら3つの視点を混同してはならない。通状況的一貫性は視点によっては存在するし、また存在しないのである。


 「パーソナリティを見る時間」の混乱について。一人称的にパーソナリティを見る場合、その対象は自分自身であり、記憶がある限り生まれて以来のあらゆる情報が利用可能である。しかし、二人称的・三人称的には、ある特定の時間における観察を基準にしなければならない。したがって、三人称的視点からパーソナリティを考える場合、観察時点より前、あるいは観察時点の間の対象の行動や経験をどこに位置づけるかによって、パーソナリティの通状況的一貫性に対する見方は大きく変わってくる。個人差が内的要因によって生じているのか、過去の状況的要因によって生じているのか、観察できないその場の状況要因によって生じているのか、これを観察データ自体から判断することは原理的に不可能である。理論の一人称的構成と三人称的な測定も乖離している。一方、現存しない状況要因を内的要因としないアプローチに、個人差を過去の学習の差から説明する行動分析理論がある。


 つまり、人間は一人称的には自己同一性という形でパーソナリティの通状況的一貫性を認識し、二人称的・三人称的には状況の変化に応じて行動を変化させることによって適応していく、二面性を持つ存在である。この点で人間は機械と異なるのだが、問題は、与えられるデータを解釈するときにそのデータに適した手法を用いることである。パーソナリティ研究における視点と時間の混乱は、研究者の理論的基盤と研究方法とが乖離してしまった不幸な例なのである。

 この論文は心理学のみならず行動科学全般にimplicationがあると思うのだが、どうだろう。

 謝辞

 本日某所で相手してくださった方々、本当にどうもありがとうございました。論戦を深められるくらいまで研究に励みます。モチベーション上がりました。今後とも何卒よろしくお願い致します。あと、某スレッドより『「自然主義派」人類学者による文化と認知』(波多野誼余夫)
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/rihum/pdf/hatano.pdf  
よりによって、前認知科学会会長がこのネタに手を出してたとは‥ 軽く目眩。

 勝手に淡々とレジュメ化するよその2

Culture, Cognition, and Evolution(Dan Sperber and Lawrence Hirschfeld)
http://www.dan.sperber.com/mitecs.htm

スペルベル男爵。http://d.hatena.ne.jp/Gen/20050420の続き。さしあたって「文化」を定義して欲しいYo!>男爵


¶20
ここから、【2.進化的あるいは認知的パースペクティブの中の、文化】の話。
◆社会的動物はたくさんいるが、そのうちいくつかの種は、世代を超えて伝達される情報を、行動を通じて共有/維持する。
◆たとえrudimentary(初歩的)でも、それらの動物は「文化」をもつと言えるだろう。
◆考古学(archaeology)的には、人間の単純な文化はおよそ200万年前から、複雑な文化はおよそ4万年前から存在したと考えられる。
◆「複雑な文化」とは、"cultural symbolism"(儀礼やアートなど)を含むもの。


¶21
◆「文化」の研究は、認知科学と関連性を持つ。
◆なぜなら、
a.文化の存在は、人間の認知能力の効果であり、それが顕在化したものであるから(effects and manifestation)。
b.今日の人間社会は、人間の生活――とくに認知的活動――のあらゆる側面を、文化的にフレーム化するから。
◆人間の認知は、社会的・文化的コンテクストの中で生じる。すなわち、文化から与えられたツールを用いる。「文化から与えられたツール」とは、たとえば言語・概念・信念・本・顕微鏡・コンピュータといったもの。
◆さらに、認知活動の大部分は、社会的・文化的事象に関するもの。


¶22
◆したがって、文化に対する認知的パースペクティブと、認知に対する文化的パースペクティブは、両方必要でありcomplementary。


¶23
◆文化的多様性の問題について。
◆20世紀初頭まで、文化的多様性は生物学的多様性に結びつけられていた。(進歩"progress"観念との結びつき)
◆Adolf Bastian & Edward Tylor→人間の"psychic unity"を主張。(Gen註:cf.「文化または文明とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣習その他、社会の成員としての人間によって獲得されたあらゆる能力や習性の複合的総体である」)
◆Franz Boaz→人間の文化的多様性は"learned"だと主張。
◆今日、文化的多様性イコール生物学的多様性とは考えられていない。
◆文化的多様性は、共通の生物学的能力――特に認知的能力――の効果("effect")であり、異なる歴史的/生態学的条件を与えられれば、この多様性が可能になると考えられる。

¶25
◆では、認知能力と文化は具体的にどのように関わるのか。
◆文化的適応は認知的適応に勝る(trump)が、これは、文化的スキルと人工物が、人間の認知構造からは予想できない結果の達成を可能にするという意味において、である。


¶26
◆多くの社会科学者は、この点から、心理学は社会科学や文化研究に無関係だと考えてきた。
◆しかし、比較的同質的な genaral-purpose intelligence を想定し、なおかつ、それに文化的多様性形成における役割を与えることは、可能なのである。
マリノフスキー:宗教や信念そして文化を、心理的欲求の観点から説明しようとした。
レヴィ=ストロース:人間の無意識的構造から文化を説明しようとした。( hierarchical classification や 二項対立への preferences が、親族関係や神話といった複雑な社会文化システム形成において重要な役割を果たすことを明らかにしようとした)


¶27
認知人類学 (reviewed in D'Andrada, 1995)
認知人類学では、人間の心が、"same categorization and inference procedure"を、すべての認知領域に適用すると仮定される。
◆早期の研究は、分類体系へ注目し、認知科学よりもsemanticsやsemioticsから概念的道具を引っ張り出した。
◆最近、Shank and Abelsonが"scripts"というアイデアを出した。
→より大きな知識の構造――"cultural schema"や"cultural models"――が行動や信念をguideするという考え方。
◆これらの研究はメタファー研究に受け継がれた。(Lakoff & Johnson,1980; Lakoff,1987)


¶28
◆Quinn(1987)は、結婚に対する一連の結合したメタファーが、他の日常的領域へのmodelsに由来する諸前提を、内に含むと考えた。(ex.folk psychology)
◆Schema的分析は、心的表象と文化的表象を橋渡しすることを意図している。


¶29
◆社会科学者の文化重視の姿勢と、近年研究が進んでいる、心の(生物学的)複雑さについての知見は、調停可能である。
◆たとえば、"genaral intelligence"への批判――心のモジュール仮説、"domain specificity")について。


¶31
◆二つに分けて考えられる。
A.最も重要な領域特定的(domain-specific)な能力
→これは進化的適応であり、どの文化でも働いている(それぞれ「効果」は異なるが)
B.社会的文化的に発達した領域特定的(domain-specific)な能力
→たとえば専門性(expertise)など。これはそれぞれの文化に特有。
◆AとBの関係は、きわめて興味深い研究対象である。たとえば、どれくらいBはAに根ざしているのか。
◆cf. Folder,1982


¶33
◆近年の研究
→入出力過程だけではなく、中央の概念メカニズムもどうやら領域特定的である。
たとえば、人間の行動を「信念」「欲求」の観点から解釈しようとする"theory of mind"。その他、"folk biology"や"naive physics"。
◆これらは、子どもが複雑な事象について(一貫性を保ちながら)考える際に、基礎を与える。

 勝手に淡々とレジュメ化するよその1

Culture, Cognition, and Evolution(Dan Sperber and Lawrence Hirschfeld)
http://www.dan.sperber.com/mitecs.htm
スペルベルさん。


¶1
認知科学の多く→individual device(心、脳、コンピュータ)が多種の情報を処理する方法にフォーカス。
◆でも個人は種の一員であるし、種の他のメンバーと遺伝型/表現型の多くの特徴を共有する。
有機体→種として共通の認知能力をまず持つ。個人変数は比較的superficial。認知活動の大部分は他のメンバー(有機体)に向けられる。
◆社会性と文化は、認知能力により可能となり、認知能力のontogenetic&phylogenetic(個体発生的・系統発生的)発達に貢献し、認知能力に具体的な入力を与える。


¶2
◆だが、集団レベルの議論と認知科学はシステマチックに統合されていない。ひとつはそれぞれの学問固有のdisciplineの問題設定方法が異なるから。もうひとつは、「文化」という概念が(それぞれのdisciplineごとに)バラバラだから。


¶4
◆3つに分けて考察する。
1.比較あるいは進化的パースペクティブの中の、認知
2.進化的あるいは認知的パースペクティブの中の、文化
3.生態学的・社会的・文化的パースペクティブの中の、認知


¶5
まず、【1.比較あるいは進化的パースペクティブの中の、認知】について。
ダーウィン→人間/動物の二分法をquestionした。
◆しかし最近まで、動物観察は心理学にあまりインパクトを持たなかった。


¶6
◆行動主義者→条件付け、すなわち、いくつかの学習法則がすべての動物に共通することを明らかにしようとした。
◆動物の研究とは、"discover universal psychological laws"であった。
◆比較心理学→生態学的妥当性の欠如と、種間の質的差異の軽視から、批判される。


¶7
◆行動主義者→外的刺激を重視、instinctsを軽視
◆しかし、1940年頃、ローレンツの登場以後、ethology(動物行動学)が誕生した。
◆動物行動学→instinctsと、それぞれの種特有の"fixed action patterns"を重視した。
◆さらに大事なのは、動物行動学が、本能と学習は対立しないことを示したこと。
◆様々な学習過程は、特定の能力を発達させるため特定の情報を探求するinstinctsに、ガイドされるものなのだ。つまり、生得的能力が学習を誘導する。(ex.すりこみ)


¶8
◆動物行動学→どの種もそれぞれにpsychologically uniqueなことを示す。
◆cognitive ethologyなんてのも生まれたが、観察が主、実験は補助的な扱いだったため、実験心理学者との間に論争が生じた。


¶9
◆霊長類の認知(primate cognition)研究は大事。なぜなら、進化的コンテクストの中に人間の認知を位置づけることが出来るから。
◆しかし、人間と霊長類の認知を過度に連続的なものとして扱うことは、非生産的。


¶10
◆様々な種は、異なった程度/方法で、それぞれの心理的能力に依存している。
◆シグナルの出し方/受け取り方/解釈の仕方は、それぞれの種特有の能力に依存する。
◆人間の場合だけ、"genaral intelligence"が仮定される。が、これはチョムスキー生成文法論を端緒として疑問に付される。


¶11
◆animal psychologyの重要な側面は、社会的行動に顕在化される。たとえば、グループの他メンバーの認識の仕方、相互作用の仕方、など。
◆関係性を規定するものは、1.過去に他個体と相互作用した際の記憶、2.kinship relations、3.集団内のヒエラルキー関係。
◆霊長類の場合、自然環境よりも社会的環境に適応するため、洗練された認知過程が発生したと想定される。(ex.知能のマキャベリ仮説)


¶12
◆多くの社会的能力は明白な機能をもつ。
◆一方、社会的生活(the very existence of social life)の説明は、ダーウィン的アプローチにとって困難だった。


¶14
◆社会的生活=協力+競争。(Gen註:協力でも競争でもない中立的無関心を排除するのはどうか、と)
◆この協力=利他的振る舞いを、どのように理論的処理するかが進化論の課題だった。(タダ乗りする奴が有利なので)
◆1.ハミルトン(1964)におけるkin selection(血縁淘汰)の研究、2.トリヴァース(1971)における互恵的利他主義(Reciprocal altruism)の研究で、ひとまず理論的解消。
◆「裏切り者検知メカニズム」の存在が示唆される。


¶15
◆上記の研究は社会生物学の一つの成果だ。だが、E.O.Wilsonが社会生物学的アプローチを人間行動研究へ拡大した際には、論争が生じた。
社会生物学は、認知科学に対してもあまりインパクトを持たなかった。理由はふたつ。
1.社会生物学は、行動と生物学的適応度(biological fitness)をダイレクトに結びつけてしまうから
2.社会生物学は、行動を規定する心理メカニズムにあまり関心がなかったから


¶16
進化心理学の登場。進化心理学は、(社会生物学が扱いきれなかった)遺伝子と行動の間の"missed link"を埋めるもの(cosmides & Tooby,1987)。この"missed link"とは、すなわちmindのこと。


¶18
進化心理学者→社会生物学者とは異なり、祖先の環境で適応的であった行動が、必ずしも後の文化的環境(ex.現代)においても適応的であるとは考えない。
◆具体例としては、突然の大きな音に注意を払う能力。祖先の環境では適応的だった。だが、現代では騒音問題を引き起こしている。一方、ベルやゴングやアラームやパーカッション(のような文化的装置)は、その能力を利用して存在することができる。
◆すなわち、このような進化的適応の非適応的効果は、文化の重大な側面をなすといえるかもしれない。


ひとまずここまで。